夏休みとはいうものの・・・

ずいぶんと更新していませんでした。
大学も夏休みに入り、ようやく落ち着いて自分の時間がとれるかと思いきや、次々と降って湧いてくる雑用の数々。
どこにも向かっていかない作業・・・いったいいつまでこんな雑務を課されるのか・・・。
おそらくこの先ずっとついてまわってくることは容易に想像できるわけですがね、シーシュポスのように。
ともあれ、あっという間に8月は過ぎて行きました・・・orz


ジャンルのせいもあって周りでは、海外への留学の話しはよく耳にします。
もちろん学術的なキャリアや研究活動のスキルアップという目的が第一義に設定されているのでしょうが、本音は徒労に終わることがわかっていながら、誰かがやらなければならない雑務からの逃避なのではないかという邪推をしてしまうほど、業界は人材難です。
人が足りないけれども、ポストはないという負のスパイラル。
残された者はひたすら搾取されつづけるという悲劇。
この構造はなんとかならんのかという憤りを感じる今日このごろです。


いきなり愚痴から入ってしまいました。
気を取り直して、今日は、ミシェル・ド・セルトーについて書きたいと思います。
前々から関心を持っていた、歴史家・思想家だったので、一度しっかりと読み込みたいと思っていたところ、大学院の後輩たちと、セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の読書会をしました。
それで、この機会にセルトーについて書いておこうと思った次第です。


論じたいことは、たくさんあるのですが、とりあえず触れておかなければならないのは、セルトーの消費者に対するまなざしでしょう。
彼の読書論に端的に表れているのですが、セルトーは読者(=消費者)に対する積極的な存在として捉えようしています。
すなわち、作家、テクストといった特権的な知に対して、読者は単なる受容者として存在するのではなく、その読みを通し、ひとつのテクストから多様な意味を作り出す積極的な存在なのだ、ということを言っています。


基本的にセルトーが『ポイエティーク』のなかで言っていることは、この考え方の変奏です。
特権的な知の枠組みが存在していたとしても、その枠内で、知の支配が貫徹されているわけではない、ということです。
『ポイエティーク』のなかでは、歩行者や読者といった大きな枠組みのなかで限定されながらも、その限界をずらしていく行為者の姿が描かれているわけです。
特に「実践」ということが強調されているのですが、この本の最も重要なポイントは「時間」によるずれなのだと思います。
同じ言葉、同じもの、同じ場所であっても、時間の経過とともにそれを「使用する」人々のなかで、別のコンテクストに置かれていってしまう、「ブリコラージュ」が行われること、これがセルトーの中核にある考え方です。
ポイントは、そこに時間の経過がともなっていること。
「実践」と呼ばれる行為は単なる反復なのではなく、反復されるなかでずれていってしまうこと、これがセルトーにとって決定的に重要だったのではないでしょうか。
彼が歴史学者としてのキャリアを持っていることが、「時間的差異化」への関心を向かわせているのではないか、と思ってみたりします。
ベタな例を用いれば、ニコニコ動画などは、セルトーの論を端的に可視化しているように思います。
他にもまだ書ける論点はあるのですが、今日はこの辺にしておきます。
また書きたくなったら、セルトーについて書くと思います。

対話とネゴシエーション

相も変わらず、ばたばたとやることに追われている毎日を過ごしていますが、
この前の日曜日に引っ越しをし、ずいぶんと生活スペースが快適になりつつあります。
これで、さくさく研究もできればいいんですが・・・w


その引っ越しの前日、うちの大学であるシンポジウムがありました。
本当は引っ越しの準備とかしなきゃいけないんですが、そんなことよりも聴きに行きたいシンポジウムでした。
テーマは、「人種主義、植民地主義多文化主義
パネラーが、ガッサン・ハージ、テッサ・モーリス・スズキ、塩原良和という結構聴きごたえのある人たちです。
といっても、ちゃんと知っていたのはモーリス・スズキさんだけだったんですが、ハージさん、塩原さんともに興味深い講演内容で、フォローしてなかった自分が情けないorz
何よりも、こんなシンポジウムを開ける先生がうちの大学にいたことが驚きです。
残念ながら、うちの学科とは関係ないみたいでしたが・・・orz


お三方の報告の内容は、大変興味深いものだったので、三人の関連著作を読んでみようと思っています。
また、このブログで紹介することがあるかもしれません。


とりあえず、シンポジウムの詳細は置いておくとして、最も琴線に触れた部分のことだけを触れてみようと思います。
それは、報告自体ではなく、フロアとの質疑応答のときだったんですが、
ハージさんへの質問のなかに、「対話」と「ネゴシエーション」の違いはあるのかというものがありました(というか、ハージさんがそのように解釈されたというのが本当のところなんですが)。
前後関係を説明すると、ハージさんの報告のなかでは、他者との「ネゴシエーション」が必要だということが核になるメッセージでした。
また、塩原さんの報告では、「対話」の必要性ということが主張されていました。
報告を聴きながら、僕はハージさんの「ネゴシエーション」と塩原さんの「対話」は同じことを言っているのだと理解していました。
おそらく、実際、指し示している意味内容としては同じものだったのでしょう。
それを聴きながら、やはり「対話」という決着のつけ方しかないのか、という思いがありました。
もちろん報告の内容自体には大変感銘を受けたのですが、以前このブログでも書いたように、「対話」という言葉がマジック・ワードとして流通していることに違和感を覚えていた僕としては、やはり現在の知の限界点は「対話」でしかなのかというあきらめにも似た(決して「対話」がダメだということではないんですが、ここにしか至れないことへの閉塞感とでもいうものでしょうか)感じしたわけです。
なぜ自分が「対話」ということに対して、違和感を持っているのかもうまく説明がつきません。


この時点で、僕はハージさんの「ネゴシエーション」が「対話」と同義だと思っていたわけですが、彼は上述の質問に対し、ちょっと違うんだということ言います。
「対話」とは、ある言語を想定した行為、あるいは理解の基盤とでも言えるものをあらかじめ用意されている行為として考えられる、というようなことを言います(ここでの内容はかなり僕の解釈が入っているので、実際はもっと違うニュアンスかもしれませんが、誤読の可能性を開かれたということで理解してください)。
それでは結局、他者を強引に理解の地平に引きずり出す行為なのだ、ということを言っていました。
これに対して、「ネゴシエーション」というのは、自然のように、そもそも理解の基盤のないものをそのものとして受け入れる過程なのだ(というように、僕が解釈した)とします。
似ているようで、大きく違うものです。
報告のなかで、ハージさんはothers for usではなく、others with usの関係性を作るべきなんだということを主張されていました。
おそらく、ハージさんにとって「対話」にはfor usのニュアンスがあり、「ネゴシエーション」のほうがwith usの関係を作る行為なのでしょう。
この説明は僕にとって非常に納得のいくものでした。
「対話」という言葉に対する違和感とは、これだったのかと、ハージさんに言葉を与えてもらった感じです。
歴史研究者の言う「対話」とは、実は、相互の存在の受け入れではなく、強引な理解の枠組みにはめ込むような感じがしていたので、このような話しを聴けたことは、今後の研究者としての自らの態度、振舞を行ううえで、重要な指針になると思います。
ちなみに、ハージさんの訳者でもある塩原さんの「対話」はおそらくハージさんの「ネゴシエーション」に近い意味で使われていたと思います。誤解のないように、付け加えておきます。


歴史学のなかで、「ネゴシエーション」をするというのはどういうことなのか、この問題は今後、僕の研究者としての最も大きな課題になると思います。
実は、このような問題と格闘していた日本人の研究者がいたことをこのシンポジウム絡みで、最近知りました。
ハージさんの本を塩原さんとともに訳しておられる、保苅実さんという研究者です。
後輩のY君に存在を教えてもらったんですが、保苅さんの『ラディカル・オーラル・ヒストリー』はまさに歴史学における「ネゴシエーション」とは何かを指し示してくれているように思います。
まだ読み途中なので、ちゃんとしたコメントはできないのですが、また感想をブログに書きたいと思っています。


しかし、こういうとんでもない出会いがあったりするから、学問はやめられないですね。
もちろん日常のなかにも衝撃的な出会いはあるんでしょうが。
というわけで、ますます研究者としてのモチベーションが高くなっている今日このごろです。
いやー、30代に入っても刺激的なことはガンガン出てきますね。
身体がもつのかw

文化の多様性って・・・

最近、某後輩からこのブログの記事が最近手抜きだと指摘されました。
確かにw
言い訳をしておくと、更新することを重視して、ひとつの記事に情報をどっかと詰め込まずにしていこうと思ってます。
今後もこの方針でいこうと・・・


さて、先々週あたりから学会シーズンで、東京方面に出ていくことが2度あったのですが、
改めて、東京と地方の違いを感じました。
山手線に乗ると、とにかく、街に切れ目を感じない。
各駅にどかーんと建物群が立ち並んでいる。
こんな風景は東京にしかないんじゃないでしょうか。
名古屋出身で、現在は京都に住んでいる自分としては、まったく世界観が違うという感じです。
もちろん、初めて東京に行ったわけでもないですし、東京がどういうところか知らないわけではありません。
ですが、東京に行くたびに圧倒的な「世界」の違いを感じてしまいます。
そもそも物量がちがう。
人、建物、店、品物等の量が京都や名古屋では比べ物にならない。
さほど詳しいわけではないですが、大阪ともぜんぜん違う。
この物量の多さによって、図らずも文化的多様性が形成されているような気がします。
東京に住んでいる方にとっては、何を当たり前のことをと感じられるのかもしれませんが、
その当り前さ自体が驚きだったりするわけです。

こうなってくると、地方に住んでいる(にしか住んだことのない)人間と、東京がスタンダードだと思っている人では、
ポストモダン的状況だったり、再帰的近代だったりの感じ方がまったく違うのではないのか、と思ってしまいます。
単純な話し、「新宿」に行くのだって電車を使うことに限定しても何パターンも用意されているわけです。
京都じゃまずそんなことは起こらない。
日常のなかに選択肢があり、それを選択して生きている人と、そもそも選択肢が用意されていない人とではまったくリアリティが違うんじゃないでしょうか。
なんか地方出身者のヒガミみたいな文章になってしまいましたがw、頭でわかっていることと皮膚感覚として知ることではリアリティを作るインパクトが違うなあ、ということが言いたかったわけです。
ただ、東京に住んだことがあるわけではないので、実際住んでみると全然違う感覚を持つかもしれないんでしょうけど。
もうひとつ、皮膚感覚はインパクトが強い分、ある種の幻想を抱かせるとも思うので、頭でわかるよりも皮膚感覚を大切にしたほうがいいと思っているわけでもありません。
自分自身は、どちらかというと、頭でわかろうとするタイプなので、ガンガン外に出て皮膚感覚で感じろ、とかはまったく思わないんですが、
たまに触れることがあると、それはそれで考えることが多いなと思った次第です。


今回も手抜きと言われそうですねw

文化的フロンティアとコンタクト・ゾーン

インフルエンザ騒ぎがおさまり(「騒ぎ」はおさまったけど、インフルエンザ自体はなんら変わらず、存在してるのでしょうが・・・。こういう状況をみていると、公衆衛生という問題が単純に病原体があるかないかの問題ではなく、どのように人々に認識されているかという問題なんだなと、改めて実感します。後輩のK君が近代アメリカの人種と公衆衛生の研究に関する修士論文を書いていましたが、まさに、いまの日本の状況を先取りしたような内容です。こういうシンクロが起こるのは、着眼点が優れていた証拠でしょう。K君はこの状況をどのように感じてるんでしょうかね、聞いていみたいものです)、先週は休校だった大学も再開され、日増しに忙しくなっているような気がしますが、なかなかやらねばならないことははかどらず、ブログを書いて現実逃避をしているわけです(笑)。


さて、過去何回かにわたって、ピーター・バークの『文化史とは何か』にそって、文化史の問題について書いてきましたが、ほかのネタも書こうかなと思っているので、一応、オチをつけないといけないなぁと思っている次第です。
というわけで、オチをつけてしまおうということですが、バークの本が結構いい本だと、僕が個人的に思っている部分について書いてみようと思います。
この本の終盤の展開は、構築主義によって受けた文化史(歴史学)のインパクトをどのように克服するかという問題について語られています。
さまざまなリアクションについて書いてあるんですが、特に重要である(おそらくバークもそう位置づけていると思う)ポイントは、文化的フロンティアということ、そしてその機能としての接触圏(コンタクト・ゾーン)ということだと思います。


文化的フロンティアや文化のコンタクト・ゾーンという考え方自体さほど新しいものではないでしょう。
おそらく、現在の歴史学においては、スタンダードなテーマともいえます。
重要なのは、テーマとしての文化的フロンティアやコンタクト・ゾーンではなく、バークがテクストを重視した構築主義的アプローチとコンテクストを重視してきた従来の歴史学(文化史)をいかに融合していくべきか、という問題についての処方箋として、この問題を提示していることです。
テクスト・レベルの問題とコンテクスト・レベルの問題が同時に重要となるテーマとして、文化的フロンティアの問題を扱うべきだと言っているわけです。
その是非はともかく、テクストとコンテクストの問題を何とかしてやろうというバークの態度に、僕は非常に好感が持てました。
これまでも、テクストとコンテクストの問題は議論されてきましたが、結局のところ、お互いの立場の違いを確認し、結果、「黙殺」という最悪の状況になることが多かったという、印象を否めません。
最近、歴史学者がよく使う解決策として、「対話」という言葉を持ち出すんですが、これもうさんくさくなることがあります。
結局、専門家集団のなかでの「合意」ぐらいの意味でしかなく、本当の意味での「対話」ではないような使用のされ方をすることが多いためです。
「対話」という言葉がマジック・ワードとして使われ、結局、「いいままでの歴史学で大丈夫だよね」みたいな歴史家の自己弁護として使われる代物になり下がってしまっているような気がします。


それに比べ、バークは真摯にこの問題に向き合い、自分なりの着地点を示しているように思います。
このように読んだのは、僕の完全な誤読かもしれませんが、そのような読みを許容している本であることは間違いないでしょう。
ただし、文化的フロンティアだけがこのような問題を解決する手段だとは思いませんが。
あえてこのようなことをいうのも、上にも書いたように、文化的フロンティアの問題を扱った研究は、今日の研究状況においては、スタンダードものであり、現在も量産され続けている研究ジャンルであり、それらの研究がバークと問題意識を共有しているように思えないためです。
そして、バークの主張により、なんの問題意識もない文化的フロンティア研究が正当性を与えられ、量産されることは、歴史学の摩耗を意味します。
それはいかがなものかという気持ちがあるからです。


それはさておき、バーク自身の主張には共感を覚えたことは確かです。
オチがついたのか怪しい内容になってしまいましたが、書きたいことは書いたのかなと。
また追加することもあると思いますが。


今後のどこかで、上で言及した歴史学における「対話」の問題についても書いてみようと思っています。
いつになるかわかりませんが。

過去と現在の「自分」:同窓会における「幽霊」的状況

そろそろ更新をしないとまずいなぁ、ミシェル・ド・セルトーについて書こうかなぁと思いつつ、
セルトーについて何か書けるほどの余裕がない今日この頃。
ということで、今回は歴史学とはあまり関係ない(ちょっとはあるかもしれない)ことを書こうと思っています。


先週の土曜日、小学校の6年生のときの同窓会がありました。
何かの機会で会うこともあった友人もいますが、ほとんどの人とは10年以上あってないわけで、かなり懐かしかったんですが、
日常生活では、同い年の人とたわいもない話しをする機会はあまりないので、とても新鮮でした。
いろんな話しが聞けて楽しかったのですが、それは置いておいて、「同窓会」という状況で起こっている自己のあり方が面白かったので、それについて書きます。


同窓会という場所は、過去の「自分」と現在の「自分」が同居する場です。
デリダ的な言い方をすれば、自分の「幽霊」と出会っちゃう場とでもいえるでしょうか。
現在の自分は、当然、現在の日常を生きていて、それなりの紆余曲折を経て、現在の自己イメージが作られているわけです。
しかし、同窓会においては、自分があずかり知らぬ「自分」が立ち現れてくるわけです。
つまり、友人たちそれぞれがもっている「僕」についてのイメージであり、それは過去の「僕」とも違う友人たちの記憶のなかで作られた、記憶化された「僕」です。


まったくもって、脱構築的状況です。
ありふれたことなのでしょうが、実際起こってみると奇妙な感覚におそわれます。
友人たち、あるいは自分自身のなかで記憶化された「自分」と現在を生きている「自分」が出会うことで、
しばらくどこに自分がいるのかわからないような感覚とでもいいましょうか。
まあ、こんなことは僕が書くまでもなく、いろんなとこで言及されたりするんでしょうが、
歴史学者のはしくれとして結構気になる現象です。
「記憶の歴史」なんてことが言われたりしますが、共同体のなかの記憶なんて、そんなにすんなり片がついたりするんですかね?
日常空間で記憶化された「自分」に出会ったりなんかすると、「記憶」とはもっと個人的営みだったりして、巷で記憶の歴史と言われているものは、歴史事象についての表象の歴史にしか過ぎないもので、わざわざ「記憶」なんていう必要があったりするのかなんて思ったりもします。


強引にセルトーの話しに持っていくと、記憶化された事象は読み手のデコードによって複数化される可能性があるんじゃないでしょうか。
「歴史」だって、「密猟」の対象になるでしょう。
その辺のことを記憶の歴史家たちは自覚的にやっているんですかね?
それはそれとして、セルトーの「密猟」を、個人に対するイメージに当てはめると、デリダの「幽霊」や「散種」にぐっと近づくように思います。
例によって、適当に思いつきで書いているので、用語の厳密性はまったくありません。


それにしても複数化された「自分」と出会うのは変な感じですね。
他の人は割りとすんなり受け入れられたりするんでしょうか?
僕は時差ぼけならぬ、「自己イメージ差ぼけ」で、日常生活に復帰するのに割りと苦労します。
こういうのも個人差があったりするのでしょうかね?
まあ、「ぼけ」ていても、容赦なく日常はやって来るわけですが・・・。

歴史人類学と文化史

ご無沙汰しております。
講義の準備と研究に追われて、なかなか更新する時間がとれませんでした。
4月に入り、環境が変化して、ようやく生活のリズムをつかんできました。
といっても、母校で勤務しているせいもあり、生活の場が変わったわけではないのですが。
しかし、身分が大学院生から嘱託講師に変わったことによって、大学の見え方も変化しました。
一番大きな変化は、大学院生活を過ごした共同研究室から出たことです(まあ、ちょくちょく顔を出したりはしているのですが)。
大学院に8年間いて、毎日のようにキャンパスに通っていても、そのほとんどの時間は共同研究室で過ごしたわけで、一般の学生たちの生活の場と接触点があったのは、学食ぐらいなもんです。
いまの主な仕事場は大学の図書館と一般学生が使用するラウンジです。
自宅は研究室から引き揚げた研究書に占領され、とても仕事場としては機能しないので。
図書館とラウンジには、当然、学生たちがたくさんいるんですが、この二つの場所は生態系が異なることに気付いて、いま大学はこんなことになっていたのかと、ウラシマタロウ現象を感じたりしています。
ラウンジには、その構成員のすべてではないのですが、外国からの留学生が多い。
もちろん日本人の一般学生のほうが多いんですが、時間帯によっては、留学生ばかりだったりします。ちなみに、現在、ラウンジでこのブログを書いているのですが、留学生がたくさんいます。
他方、図書館ですが、留学生は少ないというのは、施設の必要度から考えると仕方ないのかもしれません。で、ほとんど日本人の学生ばかりなんですが、彼らは図書館で何をしているかというと、そのほとんどが資格試験の勉強です。それもかなり熱心なように見えます。
昔からこういう学生はいたんでしょうが、彼らの姿を現在の日本の経済状況から鑑みると、その切実さを考えざるを得ません。
こういう風に、一般の学生たちのなかで生活するのは非常に刺戟になっています。
彼らが何を考え、何に関心を持ち、どのように生きていこうとしているのかを、彼らの生活する姿を見ながら考えるのは、研究者としての自分が考えるべきことのヒントをもらっているように思います。
他方、いかに自分が隔離された空間で生きていたのかということに愕然としていたりもします。
大学院は一般社会とは違うことぐらいはわかっていますが、頭では分かっていることと、実際、皮膚感覚で体験することにはギャップがあったりします。
本当に、大学院とは隔離空間だったんだなと思いつつも、そういう空間と時間を得られたことは、きっと贅沢なことなんだろうと思います。
大学院という隔離空間にいなければ、一般のキャンパスの姿をこれほど新鮮には感じなかったでしょう。
普通で、一般とされているもののなかに、面白い現象がたくさんあることを感覚的に知ることは、日常性のなかで生きていくことにおいて重要なファクターとなるとも思ったりします。
そういう意味で、一般に考えられている以上に、大学院生というのは、日常性を生き抜くスキルを持っているのではないかと、その可能性を信じてみたりもします。
とはいえ、逆の事例、まったく日常性のなかで生きていけない、というより社会のなかで生きていけないであろう事例もたくさん見てきたりもするんですが。

もうひとつ、「出」大学院による変化をあげたいと思います。
それは、一般学生と講義という形ではあるんですが、専門的な話しをしなければならないという状況です。
大学院生どうしの会話というのは、専門の話をしていても比較的簡単だったりします。
共通の専門知識があり、専門用語を使えば、話そうとしていることの微妙なニュアンスを汲み取って、お互いに理解する(多くの場合、そういう幻想だったりするけれど)ことができたりします。
これは、一般の学生にはできません。
専門用語を使わず(実は、あえて使ってたりするんですが)、抽象的なことを説明するのは非常に難しく、頭を使うことだったりします。
講義の準備をすると、ヘトヘトだったりします。
学会発表なんかだと、ここだというポイント、ポイントで専門的な言葉を挿入することで、「引っかかり」を作ることもできるんですが、講義ではあまりそういうレトリックが使えない。
とはいえ、一応、大学生相手なんで、分からないなら勉強しろといえるんですが、普通の人にはそんなこと言えなかったりする。
何が言いたいのかというと、大学院的コミュニケーションが使えない空間で、専門の話しをするのは結構難しいという、ごく当たり前の話しなんですが、これはこれで面白い。
比較的抽象度の高い講義(そんな大したことはないんですが、うちの学科の他の講義と比較してという意味で)をしているので余計ですが、それをちゃんと人に伝える、そこにたとえ誤読が生じようとも、「ガチ」で話すということは、研究者として大切なスキルなわけです。
そもそもこのブログ自体、より多くの回路を開くためのひとつの実践だったりするんで、いい修行の場を与えてもらったと思います。

長々と近況報告してしまいましたが、本論はごく短くなりそうです。
今回とりあげるのは、歴史人類学の話しなんですが、ちょうど昨日講義をしてきた内容です。
講義では、モースやエヴァンズ=プリチャード、ダグラス、ギアツといったバークの本でとりあげられている人類学者の影響を話したんですが、バークの本を読んで、ここで最も重要なことは、人類学が対象としてきた贈与だとか、魔術の社会的機能だとか、穢れだとか、儀礼なんかを文化史の研究対象とすることができるようになったという点ではないかと考えた次第です。
つまり、古典的な文化史や民衆文化研究では、基本的には文化コンテンツ(作品やその作家)を研究対象の中核においていたけれど、人類学的見方がはいってきたことによって、行為や文化コードのほうに目を向けることが可能になったということではないでしょうか。
これによって、「新しい文化史」が形成される基礎が出来上がった。
おそらく時系列的には、同時発生的ではあるんでしょうが、1980年代あたりの知的状況が、コンテンツよりもコードを求めていたといえそうな気がします。
「文化」がコンテンツからコードへ変化した(あるいは、コードを含むようになった)ことの重要性を、日本の文化史家はもっと自覚的になるべきではないでしょうか。こうしたことに敏感な日本の歴史学者は多くないように思います(ただの印象です。そうじゃないかもしれません)。
コンテンツからコードへの変化は、必ずしも人類学の影響だけではないでしょう。
しかし、人類学がその流れを作るのに重要なファクターであった、言い方をかえると、ポストモダニズムに影響を受けた思想潮流によるラディカルな問いを回避しつつ、そこで指摘された問題を、ソフトランディング的な方法論での解答の仕方のひとつを提供したのが、人類学であったといえるのではないでしょうか。
もちろん、すぐにハードランディングを求める声もでてくるわけですが。
ほとんど思いつきの内容ですが、そこそこ当たっていそうな気もするんですが、どうなんでしょうね。

次回の大学講義では、フーコーブルデュー構築主義の影響等を話す予定なんですが、大丈夫なんでしょうかね、いろんな意味で。
では、また。

マルクス主義からの批判

更新が遅れました。
3月は頼まれごとの類いが集中し、かなり忙しく、あちこち動き回っていました。
このブログには、書いていませんでしたが、4月より大学院生ではなくなり、
大学で非常勤講師として教えることになります。
このブログの内容は、そこで教える予定の内容についてのメモ書きみたいなものです。
ということは、もうすぐ大学が始まるというのに、3月はほとんど準備が進んでいないということになります。
ちょっとペースをあげなくてはいけないのですが、本業(講義で給料をもらうので、そっちのほうが本業とも言えるのですが、専門の研究という意味での「本業」です)のほうもそろそろ博士論文に本格的に取り掛からないといけないので、なかなかハードな状況です。


さて、前回、「古典的文化史」の問題を指摘したところで終わりました。
まあ、ざっくりの内容を振り返れば、いち時代を全体として統一する「文化」なんてもんがあんのかということでした。
古典的文化史に対する批判は、このような「全体論的認識」への批判です。
また、その批判の担い手となったのが、マルクス主義史学です。
そもそも、マルクス主義においては、「下部構造」、すなわち経済的基盤が重視されているので、
古典的文化史家の手法は、経済的側面を無視した「宙に浮いた」議論として捉えられるわけです。

また、エドワード・トムスンは古典的文化史家たちの文化の見方が、その同質性を過度に強調していることを指摘しています。
要するに、同時代に生きる人々であっても、社会階級や性別、世代等によって、文化的に差異が生じることもあるだろうということです。
前回の記事の言葉を使えば、「大きな文化」なんていえなくて、いくつもの「小さな文化」が存在するということです。


もうひとつ、トムスンの批判のヴァリエーションともいえるものが、エルンスト・ブロッホによって指摘されています。
彼の指摘は、個人的に面白いと思っています。
ブロッホは、文化的差異をトムスンのように、社会集団のなかに求めるのではなく、「時間」に求めています。
ブロッホは、

「すべての人間が同じ現在性のなかに存在しているわけではない。それらは、今日、目にすることができるという事実を通じて、外部から見た同時代性のなかに存在しているにすぎない」

と指摘します。
なかなか理解しにくいかもしれませんが、例えば、地域によって生活様式の変動のスピードが異なるような現象とでもいえるかもしれません。
農村においては、旧来どおりの生活様式を続けているが、都市部では急激な変化が起こり、それまでの生活様式が過去のものとなってしまった、というようなことかと思います。
ブロッホは、このような現象を「非同時代性の同時的存在」と呼んでいます。
この「非同時代性の同時的存在」という考え方は、結構面白いんじゃないかと思ってます。
おそらく、厳密に言えば、例としてはあまりよくないのかもしれませんが、
現代日本の服装を事例にとって考えてみると、着物と洋服が混在しています。
着物は過去のものでありながら、現在においても消えることなく、着られています。
このような現象も、「非同時代性の同時的存在」のヴァリエーションとして捉えることができるんじゃないかと思います。
ブロッホ自身は、どちらかというと個々の社会集団間の非同時代性を指摘していると思うのですが、
着物のようないち文化現象についても同様のことがいえるんじゃないでしょうか。
さらに、このヴァリエーションの究極には、フェルナン・ブローデルの「長期的波動」、「中期的波動」、「短期的波動」のモデルがあるように思います。
このあたりは単なる思いつきなので、どこまで妥当性があるのかはわかりません。
いずれにせよ、いち時代に生きる人々が同じ時間感覚で生きていたわけではなく、であるならば、文化的統一性などということはいえなくなります。
同時代的空間において、ひとつの時間が流れているわけではないという発想が、僕としてはとても面白い。
というのも、「時間」は細分化される社会構造のなかでも、共通に人々に流れていると考えられがちです。
それは、あくまで物理的な時間なのであって、文化的「時間」というものは、複数性を持っているということになるわけです。
「時間」さえも、共通性を担保しないというのは非常に興味深い考え方です。
何とかこの考え方を使って、面白いことをいえないかなと、思ったりしてます。
まったく見通しがあるわけではないですが。


さて、話しを文化史の問題に戻しますが、
上記のように、古典的文化史はマルクス主義者たちによって、「全体論的認識」を批判されます。
とはいえ、マルクス主義的理解においても問題がなかったわけではありません。
先ほどあげた、トムスンの研究をめぐって内部対立が生じます。
トムスンは、『イングランド労働者階級の形成』(isbn:9784787232137)という名著を書いていますが、
この本について、他のマルクス主義者から「文化主義」として批判を受けます。
マルクス主義者にとって、重要なのは「下部構造」であり、文化のような「上部構造」は基本的にはどうでもいいものとされます。
トムスンの著作は、文化をメインに扱ったものであり、マルクス主義的ではないと捉えられたわけです。
これに対し、トムスンは批判者たちを「経済主義」として反論を試みています。
このような内部抗争から、新たな文化についての視点が提供されます。
それは、レイモンド・ウィリアムズが、アントニオ・グラムシwikipedia:アントニオ・グラムシ)の概念を援用した
「文化的ヘゲモニー」という考え方です。
「文化的ヘゲモニー」は、現在の歴史学においても重要な考え方で、文化現象を支配エリートたちのレトリックであるという見方は、多くの研究に影響を与えているように思います。


とにかく、マルクス主義者たちの批判によって、古典的文化史が前提としていた統一的文化観というものが打ち崩されたわけです。
その後の文化の考え方で重要なのは、社会集団を限定した文化、すなわち、エリート文化と民衆文化というサブ・カテゴリーを導入したことです。
しかし、バークはこの考え方にも問題があることを指摘しています。
ひとつは、民衆とは誰か?という問題です。
これは「民衆」を扱う場合、必ずといっていいほど出てくる問題です。
僕も専門の研究では、民衆を扱ったテーマで研究をしているので、この問題にはよく悩まされます。
エリートではない人々ということでことが済む場合はいいのですが、「文化」という局面においては、大きな問題があります。
それは、エリート以外の人々は同質の文化集団を形成しているといえるわけではないからです。
つまり、「民衆」というカテゴリーの内部においても、細分化されているということです。


バークが指摘するもう一つの問題は、エリートは民衆文化から排除されるのかということです。
庶民の文化とされているものに、エリートたちが参入していることが、ままあります。
それを、ロジェ・シャルチエは、近世のエリートたちの性質を「文化的両棲類(バイカルチュラル)」としています。
このような状況では、「エリート文化」と「民衆文化」のカテゴリーを用いる有効性を失います。
バークは、厳密な二項対立を採用するのではなく、緩やかなカテゴリーとしての枠組みの必要性を説いています。


古典的文化史にせよ、民衆文化にせよ、問題となるのは、
その内部の同質性の問題です。
これは、分析手法として、あるカテゴリーを使用する場合どうしても生じてしまう問題です。
他方で、分析概念として、一定のカテゴリーを使用しないと、研究が進めにくいことも事実です。
バークが提案するように、内部の多様性を認め、厳密な二項対立を採用せず、一定の妥当性のある緩やかなものとして、
分析カテゴリーを用いるぐらいしか、解決策はないでしょう。
あるいは、
カテゴリー自体を分析対象とするメタ的アプローチをするかです。


今回のポイントは、同質性をめぐる議論でした。
「文化」という言葉には、同質性を求めるニュアンスが付随しています。
そのため、同質性を回避するには、新しい「文化」の考え方を必要とします。
それが、以降の文化史の発展と大きく関わるわけですが、今回はこの辺で。


冒頭にも書きましたが、現在講義の準備を優先して進めていかなければならないので、
ここへのフィードバックが遅れるかもしれません。
何とか、1ヶ月に1回以上は更新しようと思ってます。
ではでは。