夏休みとはいうものの・・・

ずいぶんと更新していませんでした。
大学も夏休みに入り、ようやく落ち着いて自分の時間がとれるかと思いきや、次々と降って湧いてくる雑用の数々。
どこにも向かっていかない作業・・・いったいいつまでこんな雑務を課されるのか・・・。
おそらくこの先ずっとついてまわってくることは容易に想像できるわけですがね、シーシュポスのように。
ともあれ、あっという間に8月は過ぎて行きました・・・orz


ジャンルのせいもあって周りでは、海外への留学の話しはよく耳にします。
もちろん学術的なキャリアや研究活動のスキルアップという目的が第一義に設定されているのでしょうが、本音は徒労に終わることがわかっていながら、誰かがやらなければならない雑務からの逃避なのではないかという邪推をしてしまうほど、業界は人材難です。
人が足りないけれども、ポストはないという負のスパイラル。
残された者はひたすら搾取されつづけるという悲劇。
この構造はなんとかならんのかという憤りを感じる今日このごろです。


いきなり愚痴から入ってしまいました。
気を取り直して、今日は、ミシェル・ド・セルトーについて書きたいと思います。
前々から関心を持っていた、歴史家・思想家だったので、一度しっかりと読み込みたいと思っていたところ、大学院の後輩たちと、セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の読書会をしました。
それで、この機会にセルトーについて書いておこうと思った次第です。


論じたいことは、たくさんあるのですが、とりあえず触れておかなければならないのは、セルトーの消費者に対するまなざしでしょう。
彼の読書論に端的に表れているのですが、セルトーは読者(=消費者)に対する積極的な存在として捉えようしています。
すなわち、作家、テクストといった特権的な知に対して、読者は単なる受容者として存在するのではなく、その読みを通し、ひとつのテクストから多様な意味を作り出す積極的な存在なのだ、ということを言っています。


基本的にセルトーが『ポイエティーク』のなかで言っていることは、この考え方の変奏です。
特権的な知の枠組みが存在していたとしても、その枠内で、知の支配が貫徹されているわけではない、ということです。
『ポイエティーク』のなかでは、歩行者や読者といった大きな枠組みのなかで限定されながらも、その限界をずらしていく行為者の姿が描かれているわけです。
特に「実践」ということが強調されているのですが、この本の最も重要なポイントは「時間」によるずれなのだと思います。
同じ言葉、同じもの、同じ場所であっても、時間の経過とともにそれを「使用する」人々のなかで、別のコンテクストに置かれていってしまう、「ブリコラージュ」が行われること、これがセルトーの中核にある考え方です。
ポイントは、そこに時間の経過がともなっていること。
「実践」と呼ばれる行為は単なる反復なのではなく、反復されるなかでずれていってしまうこと、これがセルトーにとって決定的に重要だったのではないでしょうか。
彼が歴史学者としてのキャリアを持っていることが、「時間的差異化」への関心を向かわせているのではないか、と思ってみたりします。
ベタな例を用いれば、ニコニコ動画などは、セルトーの論を端的に可視化しているように思います。
他にもまだ書ける論点はあるのですが、今日はこの辺にしておきます。
また書きたくなったら、セルトーについて書くと思います。