ヘイドン・ホワイトと歴史叙述


ずいぶんと放置してましたが、ちょっと更新しておこうと思います。

ここ最近ぼちぼちと『思想』8月号の「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」を読んでいます。
まだD.ハーランの論文の翻訳までしか読んでませんが、ちょっと考えたことをまとめておこうと思います。


「ホワイト的問題」とは歴史叙述の問題、特にそのなかにおける「文学性」との関係についての問題系として理解できるでしょう。
簡単にいってしまえば、歴史は「科学」か「文学」かという問題です。
とはいえ、ホワイトはこのような単純な二項対立は慎重に避けています。
力点は、歴史叙述のなかの文学性を排除することは不可能であろうという点にあります。
まぁ、正確な中身は『思想』を読んだほうがいいと思います。


収録された論考を(途中まで)読んで、なんとなく考えたのは、専門の歴史研究者はいったいどのような歴史を書くべきなのだろうかということです。
こんな漠然としていて、根本的な問題においそれと答えなど出せないのですが、ちょっとした思いつきを書いておきます。


まず、僕の歴史叙述(研究)に対する基本的な考え方は、歴史叙述とは「歴史」と呼ばれるパラレルワールドの構築する行為だと考えています。
過去の残滓から、いくつもの世界が創られていく。これが歴史を叙述する行為だと考えています。
これは一般的な意味での「歴史」だけではなく、専門の研究論文も含まれます。
つまり、歴史叙述とはひとつの「歴史」に収斂していくのではなく、複数の「歴史」の併存を創りだすものだということです。


そうした前提(この前提が受け入れられるのかは問題でしょうが)のうえで、いったいアカデミズムの歴史学は何を目指すべきなのだろうか、ということです。


アカデミズムの役割というのは、「世俗」の社会から切り離された考えを提示することにあるのだとしたら(そもそもアカデミズムがそのようなものであるという前提が成り立つのかはあやしいのですが、ここではおいておいて)、世間的な歴史認識に対してオールタナティブを提供するものでなければならないでしょう。
そうしたときに、いわゆる「実証的」レトリックは有効性を持つのでしょうか?
これはほとんど有効ではないと思います。
なぜなら、世の中のたいていの人は過去はちゃんとあり、時間と労力を厭わなければ、「本当の歴史」にいたれると思っているように思われます。
これは完全に僕の印象なので、実際はそうじゃないのかもしれません。
しかし、僕には割と世の中の人は「歴史の真実性」を疑ってはいないのではないでしょうか。
単純に言えば、「実は・・・だった」とか割と喰いつきがいいレトリックでしょう。


上記の現状認識(「本当の歴史は存在する」という認識)をした場合、最も有効なオールタナティブは「歴史はひとつではありえない」、「真実の歴史などない」という歴史認識の提供なのではないでしょうか。
パラレルな歴史のなかで、「実証的」歴史がインパクトを与えることができるなら、それは選択されるべき、ひとつのワールドのなかの話しに過ぎません。
しかし、そのインパクトはかつてほど有効ではないのでしょうか。
むしろ「実証」の揺らぎを提示できるような歴史の構築のほうが、インパクトがあり、有効な言説を提示できるように思われます。
そのような方向性で歴史叙述を行う方法論を模索してみてもよいのでは、と思った次第です。


まだ洗練されていない見解なので、もう少しちゃんとしたアイデアにしたいところです。
とりあえず、最後まで読まないとな。