メディアの発展と歴史

書かないわけではありませんと言いながら、ずいぶん更新してませんでした。
忙しかったと言えばそうなのですが、何となくだらだらと日々が過ぎていったほうが正しいような気がします。


さて、今回何を書こうかというと、近世における印刷技術の発展と歴史学の問題についてです。
とはいえ、この手の問題の専門家でもありませんので、ただの印象論の書き流しです。
まぁ、このブログで断るまでもないと思うのですが。


何で印刷技術かというと、
ここ最近R.シャルチエの読書についての歴史の再評価ということをしてみよう、
と勝手に自分のなかで思っていたのと、
講義で近世の歴史を扱うことが多く、それを踏まえての雑感を書いてみたいと思います。
近世史の専門家にとっては当たり前のことかもしれませんが、
まったく異なる史料体系を持つ時代を専門にしている者からすると、
近世のいくつかの問題を見てみると、改めて気づくことも多かったのです。


15世紀にヨーロッパで活版印刷の技術が発明され、その後あっという間に印刷所ができ、
印刷による書物が次々と作られていくことになります。
これにより、何よりも本が大量に作られることになり、本を読むという行為が拡大していくわけです。
その広がりは物理的(時間・空間的)なものであり、社会階層的なものでした。
ひとつの本が手書きの写本に比べて、圧倒的な速さで、空間的に広がっていく。
情報伝達技術としてまったく違う次元のものであり、世界観を変えていったことは、
インターネットによる世界の変容を目の当たりにしている我々には想像しやすいのではないでしょうか。


他方、社会階層的にも、書物は庶民でも手に入るものになり、民衆本も出回るようになっていきます。
このような問題はシャルチエの読書論を読んだ方がいいのでこれ以上述べませんが、
これによって「読者」という存在が認識できるようになったという点は重要です。
このようなマスに向けた印刷物が出てこない限り、
作者と読者は同じ文化共同体に属していると考えられます(そうでない可能性は否定できないのですが、これを確かめることは難しいでしょう)。
「読者」という存在が歴史学の対象になりうる。このことは大量印刷技術が出てこなければなかなか難しい。


これは何を意味しているのでしょうか。
近世の印刷技術の向上によって、歴史学の史料の質がまったく違うものになるということです。
それまで、(書物に限定すれば)特定の文化グループに向けたテクスト以外に史料らしい史料というのはなかったわけで、
ある特定の世界観を提示したものだと言えそうです。
もちろん読み手による誤読(あるいは、「密猟」)は起こるわけですが、
大量印刷が可能な世界比べれば、その誤差は少ないと言えるのではないでしょうか。
質的にも、量的にも。


大量印刷によって、ひとつの書物から紡ぎだされるリアリティの数は圧倒的に増えていきます。
そして、それを歴史家は扱うことができるようになる。
しかし、これは諸刃の剣なのであって、必ずしも歴史家にとって歓迎されるものではないのかもしれません。
無限に複数化されているリアリティをひとつのリアリティに強引に押し込むことはどこかに負荷がかかる。
かといって、複数化されたリアリティをそのまま提示することは神業でしょう。


シャルチエの論が面白いところは、リアリティの一元化の不可能性を提示することで、
リアリティの複数性を見せることに成功している点です。
彼の「読者」論は複数化されたリアリティに向き合った歴史の方法論といえるのではないでしょうか。


もっとまったく違うことを書くつもりでしたが、力尽きたのでやめますw
宗教改革はメディア革命によるパロール的世界とエクリチュール的世界の対立なのだとか。
つまり、アーキテクチャをめぐる闘争ともいえるわけです。
この辺は世界史的に重要で、アトランティック・ヒストリーの文脈にも使える。
とかいろいろ考えていたのですが、長くなりそうで、面倒くさくなってきたので、やめますww


気が向いたら、この手の話しを書くと思います。