対話とネゴシエーション

相も変わらず、ばたばたとやることに追われている毎日を過ごしていますが、
この前の日曜日に引っ越しをし、ずいぶんと生活スペースが快適になりつつあります。
これで、さくさく研究もできればいいんですが・・・w


その引っ越しの前日、うちの大学であるシンポジウムがありました。
本当は引っ越しの準備とかしなきゃいけないんですが、そんなことよりも聴きに行きたいシンポジウムでした。
テーマは、「人種主義、植民地主義多文化主義
パネラーが、ガッサン・ハージ、テッサ・モーリス・スズキ、塩原良和という結構聴きごたえのある人たちです。
といっても、ちゃんと知っていたのはモーリス・スズキさんだけだったんですが、ハージさん、塩原さんともに興味深い講演内容で、フォローしてなかった自分が情けないorz
何よりも、こんなシンポジウムを開ける先生がうちの大学にいたことが驚きです。
残念ながら、うちの学科とは関係ないみたいでしたが・・・orz


お三方の報告の内容は、大変興味深いものだったので、三人の関連著作を読んでみようと思っています。
また、このブログで紹介することがあるかもしれません。


とりあえず、シンポジウムの詳細は置いておくとして、最も琴線に触れた部分のことだけを触れてみようと思います。
それは、報告自体ではなく、フロアとの質疑応答のときだったんですが、
ハージさんへの質問のなかに、「対話」と「ネゴシエーション」の違いはあるのかというものがありました(というか、ハージさんがそのように解釈されたというのが本当のところなんですが)。
前後関係を説明すると、ハージさんの報告のなかでは、他者との「ネゴシエーション」が必要だということが核になるメッセージでした。
また、塩原さんの報告では、「対話」の必要性ということが主張されていました。
報告を聴きながら、僕はハージさんの「ネゴシエーション」と塩原さんの「対話」は同じことを言っているのだと理解していました。
おそらく、実際、指し示している意味内容としては同じものだったのでしょう。
それを聴きながら、やはり「対話」という決着のつけ方しかないのか、という思いがありました。
もちろん報告の内容自体には大変感銘を受けたのですが、以前このブログでも書いたように、「対話」という言葉がマジック・ワードとして流通していることに違和感を覚えていた僕としては、やはり現在の知の限界点は「対話」でしかなのかというあきらめにも似た(決して「対話」がダメだということではないんですが、ここにしか至れないことへの閉塞感とでもいうものでしょうか)感じしたわけです。
なぜ自分が「対話」ということに対して、違和感を持っているのかもうまく説明がつきません。


この時点で、僕はハージさんの「ネゴシエーション」が「対話」と同義だと思っていたわけですが、彼は上述の質問に対し、ちょっと違うんだということ言います。
「対話」とは、ある言語を想定した行為、あるいは理解の基盤とでも言えるものをあらかじめ用意されている行為として考えられる、というようなことを言います(ここでの内容はかなり僕の解釈が入っているので、実際はもっと違うニュアンスかもしれませんが、誤読の可能性を開かれたということで理解してください)。
それでは結局、他者を強引に理解の地平に引きずり出す行為なのだ、ということを言っていました。
これに対して、「ネゴシエーション」というのは、自然のように、そもそも理解の基盤のないものをそのものとして受け入れる過程なのだ(というように、僕が解釈した)とします。
似ているようで、大きく違うものです。
報告のなかで、ハージさんはothers for usではなく、others with usの関係性を作るべきなんだということを主張されていました。
おそらく、ハージさんにとって「対話」にはfor usのニュアンスがあり、「ネゴシエーション」のほうがwith usの関係を作る行為なのでしょう。
この説明は僕にとって非常に納得のいくものでした。
「対話」という言葉に対する違和感とは、これだったのかと、ハージさんに言葉を与えてもらった感じです。
歴史研究者の言う「対話」とは、実は、相互の存在の受け入れではなく、強引な理解の枠組みにはめ込むような感じがしていたので、このような話しを聴けたことは、今後の研究者としての自らの態度、振舞を行ううえで、重要な指針になると思います。
ちなみに、ハージさんの訳者でもある塩原さんの「対話」はおそらくハージさんの「ネゴシエーション」に近い意味で使われていたと思います。誤解のないように、付け加えておきます。


歴史学のなかで、「ネゴシエーション」をするというのはどういうことなのか、この問題は今後、僕の研究者としての最も大きな課題になると思います。
実は、このような問題と格闘していた日本人の研究者がいたことをこのシンポジウム絡みで、最近知りました。
ハージさんの本を塩原さんとともに訳しておられる、保苅実さんという研究者です。
後輩のY君に存在を教えてもらったんですが、保苅さんの『ラディカル・オーラル・ヒストリー』はまさに歴史学における「ネゴシエーション」とは何かを指し示してくれているように思います。
まだ読み途中なので、ちゃんとしたコメントはできないのですが、また感想をブログに書きたいと思っています。


しかし、こういうとんでもない出会いがあったりするから、学問はやめられないですね。
もちろん日常のなかにも衝撃的な出会いはあるんでしょうが。
というわけで、ますます研究者としてのモチベーションが高くなっている今日このごろです。
いやー、30代に入っても刺激的なことはガンガン出てきますね。
身体がもつのかw