過去と現在の「自分」:同窓会における「幽霊」的状況

そろそろ更新をしないとまずいなぁ、ミシェル・ド・セルトーについて書こうかなぁと思いつつ、
セルトーについて何か書けるほどの余裕がない今日この頃。
ということで、今回は歴史学とはあまり関係ない(ちょっとはあるかもしれない)ことを書こうと思っています。


先週の土曜日、小学校の6年生のときの同窓会がありました。
何かの機会で会うこともあった友人もいますが、ほとんどの人とは10年以上あってないわけで、かなり懐かしかったんですが、
日常生活では、同い年の人とたわいもない話しをする機会はあまりないので、とても新鮮でした。
いろんな話しが聞けて楽しかったのですが、それは置いておいて、「同窓会」という状況で起こっている自己のあり方が面白かったので、それについて書きます。


同窓会という場所は、過去の「自分」と現在の「自分」が同居する場です。
デリダ的な言い方をすれば、自分の「幽霊」と出会っちゃう場とでもいえるでしょうか。
現在の自分は、当然、現在の日常を生きていて、それなりの紆余曲折を経て、現在の自己イメージが作られているわけです。
しかし、同窓会においては、自分があずかり知らぬ「自分」が立ち現れてくるわけです。
つまり、友人たちそれぞれがもっている「僕」についてのイメージであり、それは過去の「僕」とも違う友人たちの記憶のなかで作られた、記憶化された「僕」です。


まったくもって、脱構築的状況です。
ありふれたことなのでしょうが、実際起こってみると奇妙な感覚におそわれます。
友人たち、あるいは自分自身のなかで記憶化された「自分」と現在を生きている「自分」が出会うことで、
しばらくどこに自分がいるのかわからないような感覚とでもいいましょうか。
まあ、こんなことは僕が書くまでもなく、いろんなとこで言及されたりするんでしょうが、
歴史学者のはしくれとして結構気になる現象です。
「記憶の歴史」なんてことが言われたりしますが、共同体のなかの記憶なんて、そんなにすんなり片がついたりするんですかね?
日常空間で記憶化された「自分」に出会ったりなんかすると、「記憶」とはもっと個人的営みだったりして、巷で記憶の歴史と言われているものは、歴史事象についての表象の歴史にしか過ぎないもので、わざわざ「記憶」なんていう必要があったりするのかなんて思ったりもします。


強引にセルトーの話しに持っていくと、記憶化された事象は読み手のデコードによって複数化される可能性があるんじゃないでしょうか。
「歴史」だって、「密猟」の対象になるでしょう。
その辺のことを記憶の歴史家たちは自覚的にやっているんですかね?
それはそれとして、セルトーの「密猟」を、個人に対するイメージに当てはめると、デリダの「幽霊」や「散種」にぐっと近づくように思います。
例によって、適当に思いつきで書いているので、用語の厳密性はまったくありません。


それにしても複数化された「自分」と出会うのは変な感じですね。
他の人は割りとすんなり受け入れられたりするんでしょうか?
僕は時差ぼけならぬ、「自己イメージ差ぼけ」で、日常生活に復帰するのに割りと苦労します。
こういうのも個人差があったりするのでしょうかね?
まあ、「ぼけ」ていても、容赦なく日常はやって来るわけですが・・・。