ミシェル・ド・セルトー『ルーダンの憑依』


先日、ミシェル・ド・セルトーの『ルーダンの憑依』で読書会を行いました。
せっかくなので、レビューとはいかないまでも、読んだ感想なんかを書いておこうかと思います。

ルーダンの憑依

ルーダンの憑依


セルトーについては以前もブログでも触れましたが、個人的に現在の文化史を考えるうえで重要な歴史家・思想家だと考えています。
ピーター・バークの『文化史とは何か』でもセルトーについては比較的大きく取り上げられています。

文化史とは何か 増補改訂版

文化史とは何か 増補改訂版


バークの本では、セルトーの『日常的実践のポイエティーク』のほうに注目しているわけですが、歴史家セルトーの代表作としてはこの『ルーダンの憑依』があげられます。

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)


セルトーはこの本を精神分析的手法で書いたとされていて、それが歴史学の叙述形式において斬新だったとされています。
そのあたりは、僕は精神分析(特に、セルトーが影響下にあるラカン派)の理論に精通しているわけではないので、必ずしも正確にどこが精神分析的なのかとらえることはできないのですが、だいたいここなのかなと思う点はわかったような気がします。
歯切れの悪い書き方で申し訳ありません。
それを正確に提示するのは、僕の能力の限界を越えることなのでご勘弁を。


どこが精神分析的なのかという問題はとりあえず置いておくとして、ひとつ問題になっているのが「不在」の問題です。
まず、ユルバン・グランディエ(魔法使いとして処刑される司祭)の「不在」の問題。
グランディエは事件が始まり、処刑にいたるプロセスにおいては、グランディエ自身は牢につながれていて、直接事件に関わることはありません。
また、悪魔自体が「不在」(あるいは「存在」)の問題を抱えているとも言えます。
まあ、いろいろ言えると思いますが、この「不在」をその周りの人々が囲んでいこうとするわけです。
その囲みを作っているのが、悪魔祓いと医学ということになります。


悪魔に憑依された修道女たちを悪魔祓い師や医者がどうにかしようとするわけですが、ここで悪魔祓い師と医者が担っている役割について考えてみると、
悪魔祓い師=前近代=パロール=プラティー
医者=近代=エクリチュールディスクール
のような図式でとられられるのではないかと思います。


悪魔祓い師は儀式としての悪魔祓いを行うわけです。
それはプラティークとして機能するものでしょう。
セルトーは悪魔祓いを演劇になぞらえています。
他方、医者は視覚的診察をするわけです。
ここで重要なのは、医者は学問的知によって、憑依者の身体を分析していくわけです。
当然、この当時病理学が発達しているわけではないので、医者の役割というのは、症状を視覚的(あるいは触覚的)に判断し、そこに言葉を与えていく作業をすることです。
言説の束を憑依者の身体にぶつけていくわけですが、悪魔という「不在者」には与えるべき言葉が見つからないわけです。
ここに悪魔祓いの優位が生まれるわけです。
ディスクールよりもプラティークが優先される。
それは不在のものには、圧倒的にプラティークが優勢であることを示しています。
ディスクールは不在を囲み、不在であることを示すことができます。
しかし、不在であるが存在するもの(悪魔=存在)に対処する術を持っていません。
プラティークはその対象の在/不在関係なく、形式的・儀礼的に遂行されます。
そのため、ルーダンの事件では悪魔祓いが勝利をおさめるわけです。


しかし、すでに近代性の萌芽が出てきているのは、
宗教問題として扱われて然るべき問題に医学言説が介入しつつあること。
この医学言説とは別の次元で、このルーダンの憑依事件についての出版物が出されていること。
出版はこの時期起こった大きなメディア革命です。
ルーダンの事件が出版物によって語り直されるのは、大量出版が可能になった印刷技術の革新、それに伴う流通経路の構築があったためです。
ここで付け加えておくべきは、この出版革命のもと、大量流通した書物のジャンルのひとつが医学書(専門的なものというよりも、『家庭の医学』的なもの)でした。
つまり、この当時ないしこの後に、医学言説は圧倒的ヘゲモニーを握っていくわけです。
ルーダン事件のなかでの悪魔祓いと医学の文化ヘゲモニーは、かろうじて前者によって握られたわけですが、それはこのあとに起こる医学言説の圧倒的勝利の前の最後の灯火であったのかもしれません。


『ルーダンの憑依』は他にも切り口がいろいろあると思います。
精神分析的には、グランディエと母親の問題も気にかかります。
この母子関係を切り裂いたのは、象徴的・記号的世界であると考えることもできます(ラカンの去勢問題)。
セルトー自身はこの図式をかなり意識していたのではないかと思われる箇所もあるのですが、先ほども言ったように、精神分析ラカン云々を語るのは僕自身の能力の限界を超えますので、そういう切り口がありそうだという指摘だけにとどめておきます。
と、まあ他にもいろいろ語りうることはあるのですが、今回はこの辺で。
しかし、この記事、かなり雑然としていますね。
本を読んでいない人にはさっぱりかもしれませんが、ご容赦を。