文化的フロンティアとコンタクト・ゾーン

インフルエンザ騒ぎがおさまり(「騒ぎ」はおさまったけど、インフルエンザ自体はなんら変わらず、存在してるのでしょうが・・・。こういう状況をみていると、公衆衛生という問題が単純に病原体があるかないかの問題ではなく、どのように人々に認識されているかという問題なんだなと、改めて実感します。後輩のK君が近代アメリカの人種と公衆衛生の研究に関する修士論文を書いていましたが、まさに、いまの日本の状況を先取りしたような内容です。こういうシンクロが起こるのは、着眼点が優れていた証拠でしょう。K君はこの状況をどのように感じてるんでしょうかね、聞いていみたいものです)、先週は休校だった大学も再開され、日増しに忙しくなっているような気がしますが、なかなかやらねばならないことははかどらず、ブログを書いて現実逃避をしているわけです(笑)。


さて、過去何回かにわたって、ピーター・バークの『文化史とは何か』にそって、文化史の問題について書いてきましたが、ほかのネタも書こうかなと思っているので、一応、オチをつけないといけないなぁと思っている次第です。
というわけで、オチをつけてしまおうということですが、バークの本が結構いい本だと、僕が個人的に思っている部分について書いてみようと思います。
この本の終盤の展開は、構築主義によって受けた文化史(歴史学)のインパクトをどのように克服するかという問題について語られています。
さまざまなリアクションについて書いてあるんですが、特に重要である(おそらくバークもそう位置づけていると思う)ポイントは、文化的フロンティアということ、そしてその機能としての接触圏(コンタクト・ゾーン)ということだと思います。


文化的フロンティアや文化のコンタクト・ゾーンという考え方自体さほど新しいものではないでしょう。
おそらく、現在の歴史学においては、スタンダードなテーマともいえます。
重要なのは、テーマとしての文化的フロンティアやコンタクト・ゾーンではなく、バークがテクストを重視した構築主義的アプローチとコンテクストを重視してきた従来の歴史学(文化史)をいかに融合していくべきか、という問題についての処方箋として、この問題を提示していることです。
テクスト・レベルの問題とコンテクスト・レベルの問題が同時に重要となるテーマとして、文化的フロンティアの問題を扱うべきだと言っているわけです。
その是非はともかく、テクストとコンテクストの問題を何とかしてやろうというバークの態度に、僕は非常に好感が持てました。
これまでも、テクストとコンテクストの問題は議論されてきましたが、結局のところ、お互いの立場の違いを確認し、結果、「黙殺」という最悪の状況になることが多かったという、印象を否めません。
最近、歴史学者がよく使う解決策として、「対話」という言葉を持ち出すんですが、これもうさんくさくなることがあります。
結局、専門家集団のなかでの「合意」ぐらいの意味でしかなく、本当の意味での「対話」ではないような使用のされ方をすることが多いためです。
「対話」という言葉がマジック・ワードとして使われ、結局、「いいままでの歴史学で大丈夫だよね」みたいな歴史家の自己弁護として使われる代物になり下がってしまっているような気がします。


それに比べ、バークは真摯にこの問題に向き合い、自分なりの着地点を示しているように思います。
このように読んだのは、僕の完全な誤読かもしれませんが、そのような読みを許容している本であることは間違いないでしょう。
ただし、文化的フロンティアだけがこのような問題を解決する手段だとは思いませんが。
あえてこのようなことをいうのも、上にも書いたように、文化的フロンティアの問題を扱った研究は、今日の研究状況においては、スタンダードものであり、現在も量産され続けている研究ジャンルであり、それらの研究がバークと問題意識を共有しているように思えないためです。
そして、バークの主張により、なんの問題意識もない文化的フロンティア研究が正当性を与えられ、量産されることは、歴史学の摩耗を意味します。
それはいかがなものかという気持ちがあるからです。


それはさておき、バーク自身の主張には共感を覚えたことは確かです。
オチがついたのか怪しい内容になってしまいましたが、書きたいことは書いたのかなと。
また追加することもあると思いますが。


今後のどこかで、上で言及した歴史学における「対話」の問題についても書いてみようと思っています。
いつになるかわかりませんが。