ナタリー・Z・デーヴィス『帰ってきたマルタン・ゲール』

久しぶりに、ナタリー・Z・デーヴィス『帰ってきたマルタン・ゲール』を読みました。
最初に読んだのは、大学に入って2年目か3年目だったと思うので、おそらく10年前ぐらいかと思います。
読み直したのは、大学の講義で採りあげようという極めて義務的な理由です。


それで読み直した感想はというと、なによりも読み直してよかった。
おそらく10年前もそれなりに楽しんで読めたはずだけど、今回はより楽しめました。
学生として読んだときよりも、格段にこの本のすごさと広がりを感じることができた。
仮にも、専門家としてのキャリアを積んでいてよかったと思う瞬間です。
おそらく専門家としてのキャリアを歩んでなければ、再びこの本を手に取ることはなかったでしょう。
また、デーヴィスの研究とは比べ物にならないけれど、一応研究論文を書いていることで、彼女がこの本でやろうとしていることのすごさの一端を理解することができたからです。


この本、間違いなく歴史学の名著ですが、残念ながら現在は絶版のようです。
なんとか手に入りやすい状態になってほしいものです。


この本が扱っているのは、16世紀フランスとスペインの国境近くの村アルティガを舞台に起こった奇妙な事件についてです。
奇妙な事件とは、失踪したマルタン・ゲールに、別人(アルノ・デュ・ティル)が成り替わったというもの。
事件の顛末については、この本を読んでいただいたほうがいいと思うので、ここでは触れません。
今回、この本を読みなおして、すごいと感じたのは、エンターテイメント性の高さと学問的安定感と飛躍のバランスのよさという点です。


エンターテイメント性という点では、この事件のポテンシャルの高さということもあるのですが、どれほど素材のポテンシャルが高くてもその良さを引き出すことができなければ(そして、それは歴史学というジャンルにおいては往々にして起こることですが)、学問的意義はわかるけどつまらないものになってしまいます。
デーヴィスは、その点分析的な叙述形態をとるのではなく、物語形式の叙述を採用することで、素材のポテンシャルを最大限に高めています。


学問的安定感という点では、当時同地域の状況や習慣などに目を配り、マルタン・ゲール事件をとりまく地域を物語のなかに極めて効果的に配置していることがあげられます。
これによって、マルタン・ゲール事件についての理解が深まるだけでなく、事件を歴史学の位相にスライドさせていきます。
そのスライドは下手をすれば、わざとらしく感じ、歴史叙述と学問としての歴史学の断絶を提示してしまう恐れがあるのですが、デーヴィスは学問的知識を物語の進展をスムーズに行うための潤滑油として、むしろより物語を盛り上げる形で利用しています。
すごすぎる。
日本の西洋史学者ではこうはいかないでしょう。
自分も含めてですが、改めて、日本の歴史学(少なくとも西洋史)のあり方を考えるべきなのではないかと思ってしまします。
もちろん日本で西洋史を行うことと、欧米(デーヴィスはアメリカですが)で西洋史をすることでは圧倒的に意味が違うことはあるのですが。
それを考慮したうえで、いや、日本という国で西洋史をやっているからこそ、デーヴィスのように、素材と文体と構成のバランスで勝負することのできる歴史学をつくる必要があるのではないでしょうか。


最後に、デーヴィスの学問的飛躍、跳躍力という点です。
この本のなかで、デーヴィスはプロテスタントカトリックという問題をところどころで挟んでいます。
16世紀のフランスでは、宗教改革が問題となっている時期です。
ちなみに、デーヴィスは16世紀の宗教改革が専門です。
プロテスタントカトリックの問題はマルタン・ゲール事件からは直接読み取れるものではありません。
しかし、彼女はこの地域に確実に広がりつつあった宗教改革マルタン・ゲール事件の通奏低音に流れているものとして設定しています。
この本にははっきり書かれていないので分からないのですが、おそらくデーヴィスはプロテスタントの研究を進めていくうえで、この事件と出会ったのではないでしょうか。
これについては、デーヴィスの著書・書評などを丹念に調べていけば、ウラをとれるのでしょうが、それは本質的な問題ではないですし、このブログでの書き込みにかける労力としては大き過ぎるので、ご勘弁を。
閑話休題
このプロテスタントカトリックという問題、史料的には確認しにくい問題にあえて触れることで、この本の射程が圧倒的に広がっているように感じます。
宗教改革という「大きな歴史」をバックグランドにしながら、この事件が動いていく。
そして、実際、この事件を裁いた判事で、この事件の史料を書き記したジャン・ド・コラはこの歴史の激流に飲み込まれていくことなります(X、XI章)。
この「大きな歴史」とミクロ・ヒストリーとの交差点を、ミクロ側にスポットを当てて歴史を描いている手法というのは、歴史学者として一度はやってみたいことのひとつです。
これも推測ですが、デーヴィスはこの事件のもうひとりの主人公として、ジャン・ド・コラを設定しているように思います。
この事件(あるいはデーヴィスの描いたこの本)は真・偽マルタン・ゲールとその妻が主役と言える役回りをしていますが、真の(あるいはウラの)主人公はコラであるように思います。
作家としてのコラについて、かなりの部分を割いて論じているのはそのためでしょう。
この視点から、この本を読んでみるとまた違った感想を持つのではないでしょうか。
このようにこの本は読みの可能性が広がっています。


あまりまとまった文章になっていませんが、なにはともあれ、よい本なので読んでない人はぜひ一度読んでいただきたいこと、すでに一度読んでいる方は時間がたって読み直す価値のある本であることをお伝えできればと思った次第です。