ミクロ・ヒストリーについて

大学の講義で、ナタリー・デーヴィス『帰ってきたマルタン・ゲール』を扱ったことは前回書きましたが、その続きで、カルロ・ギンズブルグの『ベナンダンティ』をとりあげました。
この二つの著作に関連して、ミクロ・ヒストリーについて考えたことを書いておきます(実は、以下の内容は、講義でコメントすることを考えていたときにつくったメモをベースにしてます。学生向けの内容なので、専門家にしたらあたり前のことかもしれませんが、その辺はご勘弁を)。


ミクロ・ヒストリーの可能性について、学生にコメントを求めたところ、ミクロ・ヒストリーのリアリティに共感できるという意見と、大きな歴史の必要性だという意見がでてきました。
当然といえば、当然で、専門の歴史学者だって、答えにつまる問題でしょう。
もちろん、どちらかを選ばなければならないということではないのですが。
(表現が適切かは置いておいて)大きな歴史=「スタンダードな歴史」とすると、誰にとっての「スタンダード」なのだろう?という問題はどうしてもでてきます。
歴史学者に限らず)歴史を語るとき、いったい「誰の歴史」を語ろうとしているのだろう、「誰のための歴史」を受け入れているのだろうと考えてみる、ある種の「ためらい」をもってみる必要があり、ミクロ・ヒストリーは「大きな歴史」と向き合うとき、少し「ためらって」みてはどうだろうということを提起するものであるように思います。


ベナンダンティ』をどう読むかということにも関わってくるのですが、アントニオ・グラムシの文化ヘゲモニーの問題とつながっていくのではないでしょうか(ギンズブルグはグラムシの影響を認めています)。
文化ヘゲモニーとは、端的に言ってしまえば、ある文化コードが「語る言葉」を独占するということであり、マイノリティは「語る言葉」をうばわれてしまう状態でしょう。
ヴァルター・ベンヤミンは、『歴史哲学テーゼ』のなかで、歴史は勝利者のために語られおり、その「語り」から抜け出そうとするもの(歴史的唯物論者)は、「歴史をさかなで」しなければならない、と述べています。
まさに、ベナンダンティは「歴史をさかなで」にしないと立ちあらわれない存在だったりします。


もうひとつ別の角度から、ミクロ・ヒストリーの可能性について考えてみたいと思います。
僕は、ミクロ・ヒストリーについて考えると、ある映画について思い出します。
それは、チャン・イーモウ監督の『初恋の来た道』です。
知っているかたも多いと思いますが、一応背景を書いておくと、文化革命時代の中国が舞台で、ある夫婦の出会いと別れ、再開までを描いている映画です。
淡々とした日常、のどかな農村の生活が描かれているんですが、そのバックには文化革命という歴史的事件が起こっていて、それが若い男女の関係を変えていくきっかけとなっていきます。
しかし、チャン・イーモウは大々的にこの問題をとりあげません。
あくまで、視点はチャン・ツィー演じる村の娘の日常にスポットが当たっています。
このことは、村の娘にとって文化革命は、二人の若者の関係性以外の何物でもないことを提示しています。
この映画をみると、多くの人々にとって「歴史」というのは日常のなかのBGMのようなものに過ぎないのかもしれないと思ってしまいます。
映画のなかでは、確かに二人の関係を変えていく重要なファクターでありながら、そこに「文化革命」という名前は与えられない。
そこに名前は必要ないのです。
そう考えると、「歴史」を大々的にとりあげている(=名前を与えている)「歴史学」という行為は、人々の生活のなかの「歴史」を描いているのだろうかと考えこんでしまします。
歴史学が困難を抱えている問題を、チャン・イーモウはやすやすと越えていきます。
歴史学の方法論において、チャン・イーモウの「歴史叙述」に近づくことができるとすれば、それはミクロ・ヒストリー以外にはないでしょう。
現在、ミクロ・ヒストリーは個別問題を語れば業績があがるという悪しきケース・スタディの大量増産(ケース・スタディ自体が悪いわけではないのですが)による危機をはらんでいます。
「社会史」や「カルチュラル・スタディーズ」や「ポスト・コロニアリズム」が食い荒らされているように。
なんとかこの流れを食い止めなければ、歴史学は衰退の一途をたどることになるでしょう(それで構わないという意見もあるでしょうがw)。
上質のミクロ・ヒストリーが書かれることを僕は期待しています(自らの課題でもありますが・・・)。
日本の西洋史学者ではミクロ・ヒストリーは難しいと思われそうですが、何も古文書館に通って、レアな史料を使うことだけがミクロ・ヒストリーではないでしょう(どちらかといえば、これは悪しきケース・スタディの部類です)。
ここで僕が問題にしたいのは、歴史のなかのコンテンツをちゃんとひっぱってきて、受容の回路にのせることができるかということです。


ミクロ・ヒストリー的なるものの可能性にかけたい!!
お前がやってるのは全然違うんじゃないかというツッコミもありそうですが、自分ではそんなに遠いことをやっているつもりはないのですが、いかんせん実力不足。
デーヴィスやギンズブルグには遠く及ばず・・・とほほ、ですね。