ポストモダニスト?

昨日、某講演に聴衆として参加して、講演後、一緒に参加していた後輩たちと話していて、考えたことをまとめておきたいと思います。


最近、よく僕は周りからポストモダニストだという評価を受けることがあります。
常々これについて若干の違和感を感じてきました。
ポストモダンと呼ばれる思想潮流に影響を受けていることは間違いないですし、そのなかで論じられる思想家の著作も好きです。
さらに、ポストモダンの影響を受けた歴史理論書などをよく読みますし、読めば共感を覚えることのほうが多い。
でも、果たして自分はポストモダニストなのかというと、いまいちピンときません。
世代的にもそうですが、むしろポストモダン的状況がデフォルトであって、そのなかで何ができるのか考えざるを得ないという立場に、図らずも置かれてしまっているというのが、自分の置かれている立場についての自己診断です。
僕がポストモダニストに見えてしまうのは(自ら戦略的に「ポストモダニスト」を引き受けることもあるので、周りのせいばかりにできないのですがw)、おそらく他の学問領域に比べて、歴史学ではポストモダンの受容が遅かったことが影響しているようにも思えます。
ただし、受容の速度というのは、研究テーマや大学の教育システムということが複合的に絡んでくると思うので、先端と最後尾にはズレがあるという当たり前の事実を確認しておく必要があるのですが。
なぜ、こんなエクスキューズを付け加えたかというと、ときどき「そんなのはもうずっと前に入ってきて、当たり前のことだよ」とかいう人がいるからです。
僕がここで「受容」といっているのは、(少なくともアカデミズムの)最後尾に近いところで広がっているという意味でです。
具体的に想定しているのは、大学の学部の講義で、ポストモダンということが語られるようになった、という状況のことをいっています。
そうなると、日本の歴史学西洋史に限っては)では、90年代以降にその受容が行われた印象を持っています。
遅いところだと、2000年代に入ってからというのも想定されます。
これは歴史学者が周りが見えていないというよりも、文学部ないし歴史学の人材の新陳代謝の悪さが原因でしょう。
いちはやく世の中の潮流を取り入れている(それが手放しでいいことではないのですが)、意欲的な若い研究者に大学生が出会うことはほとんどないからです。
また、他の分野よりも歴史学の専門家は重鎮になると、新しい歴史理論や研究法に関心を示さなくなってしまうという傾向が強い気がします。
そのため、先端と最後尾のタイムラグが大きい。
もしかすると、他の学問分野でもそうなのかもしれませんが。


話しを戻すと、ポストモダンを受けて、いったい何をつくりあげることができるのか、ということが僕ら以降の世代の課題なんじゃないかと。
歴史学の場合、実証的であるか、そうでないか、というものさしでポストモダンか否かを判断しがちです。
前者が「伝統的歴史家」で、後者がポストモダニストということになります。
しかし、ポストモダン後の世界(つまり、ポストモダンがデフォルトの世界)においては、まったく無意味な区分けです。
もし、実証を徹底すれば、歴史的真実に至れると考えているなら、ただのバカです。
ここまでバカなことを考えている人は、さすがに歴史学者にはいません。
彼らは「真実」に至れないことよく知っています。
なぜなら、歴史を捏造している、あるいは歴史というフィクションをつくりだしている張本人であるという自覚を持っている(持たざるを得ない)からです。
それを声に出すか、出さないかの違いがあるだけです(ちなみに、歴史というフィクションをつくっているという自覚を持っていない人がいるとすれば、その人は歴史学者ではありません)。


よくあるのは、「真実」には至れないにせよ、「真実」により近づける努力をすることが歴史学者の課題であるという言説です。
この言説には、すぐにふたつの批判を思いつきます。
まずひとつは、じゃあ、その「真実」というゴールは誰に見えているのですかという点。
もうひとつは、「近づく」という言葉を使っているけれど、そんなのはメタファーに過ぎなくて、仮に「真実」というものがあるとして、なぜ「距離」のメタファーでとらえられるのか、これ自体が思い込みでしょうというもの。
あると仮定するならば、「真実」というものは、遠くにいったり、近くにいったりするものではなく、そこにあるかないか、ただそれだけなんじゃないでしょうか。
少なくとも、「近づける」といっている人たちはこれに応える義務があるでしょう。
しかしながら、僕はまともな反論をみたことがない。
こんなことを言っていると、ポストモダニストに分類されてしまうわけですがw


僕がいいたいことは、「真実」とかを仮定して物事を考えているヤツはバカだ、ということではなく、真実があるとかないとか、実証的であるとかそうでないとか、そういう議論をやめませんかということです。
いわゆるポストモダン的とされる研究のなかには、「実証」とかいっている人たちよりも、よっぽど史料を読みこんで、真摯に向き合っているものがあります。
逆に、ポストモダン的手法みたいなものを使いながら、いっていることがつまんなく、「実証」的とされる研究がぶっとんだ刺激的な結論を導き出す場合だってあるわけです。
「実証」であるか、そうでないかなんてのは、説得するためのレトリックに過ぎないのであって(このレトリックってやつがやっかいなものではあるのですが)、重要なのはどのような(「リアル」ではなく)リアリティを提示することができるのかということなのではないでしょうか。
そして、それが複数化していく。
これは妄想ですが、ひとりの歴史家があるテーマでひとつのリアリティをつくりだす。
そして、次の論文で同じテーマで、先の自分自身の論文とはまったく異なる、あるいは相反するリアリティをつくりだす。
これは学会的にはタブーになっています(もしかしたらなっていなくて、みんなが(少なくとも僕が)そう思っているだけかもしれませんが)。
このような別の論文で別のリアリティを提示するというかなりきわきわなことをやらないまでも、ひとつの論文のなかで、複数のリアリティを提示することを模索してみてもいいように思います。
自分ができているかはおいておきますが・・・w


リアリティを提示するうえで、重要なのはちゃんと言葉が届いているのかということです。
実際には学会の数人しか読まない論文であっても、その先につながっていく力をもっているかどうか、ここが大切なわけです。
実証的か、ポストモダン的か、なんてのはそのとき届ける(届けたい)先(=読者)によって使い分ければいい。
問題なのは、伝えるべき中身があるのか否かということです。
そして、その「中身」は「あることはわかるけど、どんなものなのかはわからない」ぐらいのほうがいい。
こんなとこでどうでしょう?