歴史学の提示できるものとは?

大学が始まり、すでに3回講義が終わりました。
ようやく日常生活のペースをつかみ、講義の準備と並行して、なんとか研究時間を確保できるようになりました・・・と思いきや、舞いこんでくる雑用の数々。
「本当にオレがやらなきゃいけない仕事なのか!」
と、誰かに罵倒したくなりますが、現実はそんなことできるわけもなく、粛々とこなしています。
雑用が多いんですよ、秋冬は・・・(いや、雑用のない季節なんてここ数年ずっとないか)。
季節とともに、心も寒くなります。


さて、今回はいま考えていることを言葉にしておこうと思います。
それは、歴史学がいま社会に何が提供できるのか、あるいは目指すべき着地点はどのようなものなのか、ということです。
いきなりでかい問題をなぜにいまここで、と思うのですが、週1回の講義といえども、仮にも人に物を伝える仕事をするようになり、いったい歴史学にいま何ができるのか、という問題について、端的に応える必要があるのではないかといままで以上に思うようになったことが直接の理由です。
というか、大学に入って、まともに考えたことといえば、このこと以外ないんですがねw


何か革新的な結論が見つかったとかそういことではなく、普段から考えていることを文章化して、まとめておこうかなという程度です。
そもそもこのブログ(らしきもの)はそのために始めたわけなので。


端的に言ってしまえば、歴史学が今できることは、「不確実性」の提示ということではないでしょうか。
通常、歴史学は「確実性」に向かっていく学問だと考えられています。
それができるかどうかはともかく、「対話」によって一番落ち着きのいいところに結論を下し、一定の「確実性」なるものを担保しよう、ということが、ポスト言語論的転回の歴史学内でさかんに言われてきた印象があります。
僕はこのような態度にずっと違和感を感じてきました。
そもそも「対話」が同意にいたるという前提が怪しい。
同意できることなんてどうでもいいことで、同意できないことのほうが面白いことだって世の中にはあるだろうと思ってしまいます。
自分はなぜ同意できないのか、同意したくないのか、それを考えることが面白いんじゃないだろうか。
そこで担保されているのは、自分の「正しさ」ではなく、世界の「不確実さ」でなければならないんですが。


「歴史は不確実である、ゆえに確実性を求めるべきである」というのは、まったくもって論理が破綻している。
まあ、この破綻が面白いとも言えるんですが、その面白さついてはひとまず置いておくとして(実を言えば、この論理破綻は個人的には結構好きです。ただ、この「破綻」を考える必要を感じていない、あるいは無いものにしようとする、さらには自覚するにさえ至っていない歴史学者は軽蔑していますが)、歴史学者が提示できる何かがあるとすれば、「歴史とは不確実なものである」というこの一点につきるのではないでしょうか。
これはなかなか難しいかもしれない。
最近(というか、「ここずっと」といったほうが正確でしょうが)、「記憶の歴史」ということが行われていますが、それは「不確実さ」を提示する歴史学としてのひとつのオプションでしょう。
しかし、これは少々ナイーブな気もします。
むしろ「記憶」の生成の場、言い換えれば、「歴史」が創られるその場を問題にしたほうがいいように思います。
おそらく、質のいい「記憶の歴史」はそのことを論じているわけですが。


とりとめもなく、漠然とした内容になってしまって、分かりにくくなってしまいましたが、思考プロセスということで、とりあえずはご勘弁を。
自分の研究の指針としているのは、どこまで「不確実性」に肉薄できるのか、ということです。
そして、その先に「文化史」の未来があるように思います。
「文化史とは、不確実性を志向する歴史学である。」
そうなるといいかなと思っています。
「文化史」という名前からは大きく逸脱していくような気がしますが・・・。
「文化」とは本来不確実であるはずの諸事象を「確実」なものにならしめている何ものかであって、不確実性をあぶりだすことで、「文化」たる何ものかを可視化する歴史学が文化史なのだ!!
という、たったいま思いついた強引な定義をすれば、「文化史とは、不確実性を志向する歴史学である」というテーゼを主張できるのではないでしょうかw


妄想はさておき、確実性に至ろうという態度とは異なる意味において、不確実さに向かっていく歴史学ができないものかと思案、実践中の今日このごろです。