雑用は増える、ゆえに進まず

9月も半ば、あと2週間もしないうちに、大学が始まる・・・。
にもかかわらず、雑用を片付ける必要があり、本来すべきこと(研究や授業準備)が遅々として進まず、困ったもんだと思っている今日この頃です。


お知らせとして、自分の専門の論文が出ましたので、ご報告を。
細かい情報はここでは触れませんが、そのうち抜刷りができてくると思うので、必要な方は連絡をいただければ、お渡しします。


それはさておき、このところ、なぜか小説ばかりを読んで、学術関係の本を読んでいないので、ネタがないなーと思いつつ、困っていたところ、ふと昔読んだ(はずの)マルセル・デュシャンデュシャンは語る』を手に取り、読み直そうと思い立ち、現在、読んでいるところです。
デュシャンについてさほど造詣が深いわけではなく、単にファンなだけなので、なにかまともな意見がいえるわけではありません。
そもそもこの本を読んだとき、デュシャンについてほとんど何も知らない状態で、ただ現代芸術家として認識していたぐらいです。
では、なぜデュシャンの本をわざわざ買って読んだのかといえば、これまた特に理由らしいものはなく、単に芸術家について知っておくとかっこいいかなーぐらいの浅はかな考えから手に取ったような気がします。
まだ大学生のころなので、若気のいたりと許していただきたいところです。
自分の読書癖として、基本的には自分と関わりのあるものを読んでいるのですが、20冊に1冊ぐらいの割合で、自分とはまったく関係のないジャンルの本を手に取ることがあります。『デュシャンは語る』もそのような類いの本です。たいてい、この手の本は本棚のインテリアと化してしまうことが多いのですが、それでもそのうち何冊かは読むので、そこから新たな「言葉」を獲得することがあります。


僕にとってデュシャンもそのような存在です。
ですが、この本を読んでというよりも、数年前、日本で行われた展覧会(正確な名前は忘れましたが、「デュシャンと・・・展」ようなタイトルの展覧会)を見て、かなり刺激を受けたことがきっかけです。何がどうということはないのですが、デュシャンの作品がとにかくかっこよかった。
頭悪そうな表現で申し訳ないのですが、あまり批評的に語ると陳腐になってしまいそう(というか、そもそも批評できるほどの知識がないのですが)なので。
それ以来、僕のなかでデュシャンは特別な存在になったわけです。といっても、とうてい熱心なファンとは呼べません。
がつがつデュシャンについて調べたわけでもありません。
ただ何となく特別な存在なのです。
これではあまりに芸がないので、もう少し具体的に言いますと、
デュシャンの作品は、僕にとって理解の限界域ギリギリにあるものなのです。
もちろん作品解説や評論を読めば、その解釈について理解できることはあるでしょう。
しかし、そのような理解ではなくて、彼の世界と自分の世界の接合点はどこにあるのか、ということを考えさせてくれるようなもの。
そして、それは理解の可能性ではなく、無理解、あるいは誤読の可能性へと回路を開いてくれるもの。
僕のなかでは、デリダの本を読むと同じような刺激を受けます。


最近、よく思うのですが、わかることの快楽よりも、わからない快楽のほうがより刺激的なのではないでしょうか。
「わからない」と、自分の頭の悪さにいらだちもするのですが・・・orz。
それでも、「わかる(と勘違いしている)」ものよりも、「わからない」もののほうが新たな「可能性のひきだし」を増やしてくれるように思います。
おそらく、「わかる」という要素と、「わからない」という要素がうまくブレンドされているものが、より刺激的なコンテンツとして機能するのでしょう。
3:7ぐらいの割合がハードな感じでいいんじゃないでしょうか。
そういう論文を書けたらいいですね。
「なんとなくわかるけど、難しい」という感想を持ってもらえるようなものを、死ぬまでに書いてみたいものです。


巷の「わかりやすさ」信奉はいかがなものかと思っている今日このごろ。
久しぶりにデュシャンの本を手にとって、考えたことをつらつらと書いてみました。
ちょっとは更新しておこうという気になったので。
本の内容については、また書く気になったら、書くかもしれません。