「文化史」史:「古典」的文化史

今回から「文化史」の歴史について書いてみようと思ってます。
とはいえ、「文化」と同様、「文化史」の歴史なんてものを、
自分一人の力で論じれるほどの力量はないので、
例によって、オーソリティの力を借りようと思います。
今回、力を借りるのは、イギリスの文化史家、
ピーター・バークの、そのものずばりの本、『文化史とは何か』(isbn:9784588350030)です。
今回以降、しばらくはこの本の書評みたいなものとして読んでください。


ちなみに、タイトルをこれまでの
「文化史」をめぐる諸問題:そのn
から変更したのは、あまりにも芸がなさすぎるタイトルだと思ったからです。
内容が変わったわけではありません。
とはいえ、このタイトルも芸がないのですが。


あと、ここ数回のこのブログの内容についての基本方針は、
とにかく、小出しに書くということにします。
まとまった文章のほうがいいのかもしれませんが、
細切れでもいいので、どんどん書いていくことにしました。
テーマがテーマなので、
まとまりをつけようとすると、
どんどん更新が遅れてしまいそうなので、
とにかく、書いたものアップするということにします。
読みにくくなるかもしれませんが、ご勘弁を。
こういうことができるのが、ブログの利点でもあるわけですので。


で、本題ですが、
今回は、
既に述べたように、バークの『文化史とは何か』を読んでみた、
というスタイルで書いていこうと思います。


この本の大まかな紹介をしておくと、
18世紀から現在にいたるまでの、歴史学、主に西洋史において、
文化史がどのような発展をしてきたのか、あるいはどのようなヴァリエーションを持っているのか
ということを扱っている本で、
「文化史」に関心を持っている者にとっては、
めちゃくちゃ便利な本なわけです。


とりあえず、今回は1章のほんのごく出だしぐらいについて書きたいと思います。
この本の第1章は(序章もあるのですが、全体の見取り図的なものであるので、とりあえず、ここではおいておきます)、
「偉大な伝統」というタイトルがつけられており、
このタイトルからもわかるとおり、19世紀から20世紀初頭の、
いわば、文化史の「古典時代」を扱っています。


バークは、まず、二人の文化史家
ヤーコプ・ブルクハルトwikipedia:ヤーコプ・ブルクハルト
ヨハン・ホイジンガwikipedia:ヨハン・ホイジンガ
をとりあげます。


この二人からスタートするのは当然といえば、当然なんですが、
やっぱりここなのね、という確認ができるのは、こういう本の便利なとこです。


歴史学をかじったことのある人ならば、
彼らの名前と代表的著作、
『イタリア・ルネサンスの文化』(isbn:9784121600264isbn:9784121600295)と
『中世の秋』(isbn:9784121600004isbn:9784121600066)は知っているでしょう。


この二つの古典から話しを始めているわけですが、
バークは、この二人の共通する点として、
この時期の文化史を考えるうえで、
重要な概念、「時代精神Zeitgeist」について触れています。
時代精神」とは、多様な芸術のあいだに関連性をもつものであり、
その時代の特徴、バークが使用しているメタファーを用いるならば、
「ある時代の肖像」を表わすもの、といったものです。
ある特定の芸術作品を生み出された文化や時代を示すものとして「解読」すること、
それが文化史家の営みと考えらていると、バークは書いています。


ブルクハルトとホイジンガのそれぞれの特徴は、ここでは置いておくとして、
時代精神」についてコメントしようかと思います。
はっきり言って、ものすごくうさんくさいわけです、「時代精神」ってヤツは。
んなもんあるわけないだろ、と言ってしまえば話しが終わってしまうので、
なにが、どう、うさんくさいか考えてみましょう。


そもそも、その時代を表わすような統一的なものがあるのか、
という疑問が浮かんできます。
「文化」について書いたときに、少し触れたヘルダーは、
複数形の「文化」を考える必要があることを指摘していました。
ヘルダーは、ブルクハルトやホイジンガに先行する世代の人です。
にもかかわらず、彼らは、文化の複数性ということには、
関心を払わなかったようにみえます。


ブルクハルトやホイジンガの語りが、
必ずしも統一的世界観を志向したものではないにせよ、
限定的な「文化」という意識は希薄であるようにみえます。
わかりやすくいえば、ブルクハルトとホイジンガは、
誰の文化について語っているのか、
という問題に関しては自覚的ではなかったということです。


それぞれが扱っている時代にも、当然、多様な人々がおり、
その文化受容も多様であったことが、容易に推測できます。
しかし、彼らはその差異には目を向けません。
あるいは、目を向ける必要を感じていません。
統一的な世界観の表れとしての「文化」があるのです。
これは、彼らが生きた時代が国民国家の形成期であったことも関連するかもしれません。


もうひとつ「時代精神」的文化理解の問題として、
指摘できるのは、
時代精神」→「文化」であって、
時代精神」←「文化」ではないことです。
二つの図式では矢印の向きが逆なのですが、
説明すると、
時代精神」が「文化(現象)」を創り出していると考えるのが、前者の考えなら、
「文化(現象)」が「時代精神」を創り出していると考えるのが、後者です。
前者の影響関係と後者の影響関係のどちらを語るかは、まったくもって、
レトリックのレベルの話しです。
そして、そのどちらを承認するのかは、
どちらにリアリティをおく人々が多いのか、というその多数決の論理に依存します。
端的にいえば、パラダイムの問題に過ぎないということです。
そもそも、解釈や世界観などというものは、そんなものですが。

*言うまでもないことかもしれませんが、
この時代のパラダイムを読み解くということにおいては、
時代精神」が重要な概念であることは間違いないでしょう。

いずれにせよ、「文化」とその時代のコンテクストは、
このような単純な構図で結ばれているわけではないでしょう。
そもそも「時代精神」という概念を持ちいる有効性がどこまであるのか、
という先に述べた問題がどうしても出てきます。
「時代的統一性」というものを信じたい人々にとっては、
有効な概念かもしれませんが、
統一的な「文化」(ここでは、「大きな文化」と呼んでおきましょう)よりも、
細分化された「文化」(「小さな文化」)にリアリティを感じる場合、
「大きな文化」は単なるイデオロギーに過ぎなくなります。
そして、現在のところ、「大きな文化」がいかほどのリアリティを供給できるのかは疑問です。


この問題については、バークの論を追うことで広がると思うので、
今回はこの辺で止めておきます。
まとめをしておくと、
バークのいう「偉大な伝統」の文化史は、
「大きな文化」というものを求めていた時代の文化史であるといえるのではないでしょうか。
逆にいえば、この後扱われる文化史は、「大きな文化」からの決別であり、
「小さな文化」へのまなざしといえるのではないでしょうか。