文化史をめぐる諸問題:その3

なにげにタイトルをいじってみました。
微妙な変更です。ただ「@はてな」つけただけです。
あまり深い意味はないのですが、「@はてな」をつけることで、
今後の活動の場の広がりへの期待を持たせようかと思った次第です。


さて、前回からわりとはやく更新できたんじゃないでしょうか?
はやけりゃいいってもんでもないんでしょうけど。


本題ですが、
文化史をめぐる諸問題といっておきながら、
前回から「文化」をめぐる問題になってしまっています。
前回も少し書きましたが、結局、

「文化」ってなんなんだ?

という問題が、文化史、カルチュラル・ヒストリーの問題の核心部分ではあると思うので、
もう少しお付き合いください。

前回はウィリアムズの用語解説を参照して、
途中で終わっていましたが、
その続きから始めたいと思います。


cultureが「一般的過程」と「その結果」を意味するように発展してきた、
というところまで、話しを進めてきました。


ここで、ウィリアムズはドイツにおける「文化」という語の発達に目を向けます。
ドイツでは、フランス語経由で、18世紀末にCulturという綴りで使用されるようになり、
19世紀以降にKulturという現在のドイツ語の綴りになります。


このころのイギリスでは、
cultureとcivilization(文明)という言葉の意味は、
ほぼ同じものとして使われていたと、ウィリアムズはいいます。
ちなみに、「文明」もまたやっかいな言葉で、「文化」との比較は重要な問題でもあります。
とりあえず、「文明」をめぐる問題は、ひとまず置いておきたいと思います。


ドイツ語に話しを戻しますと、
哲学者J.G.ヘルダーwikipedia:ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
による使用法に、ウィリアムズは注目しています。
いろいろと説明されているのですが、大雑把にまとめると、
culturesになった、つまり複数形のカルチャーという認識が生まれたということです。
それは国や時代といった範囲での多様さにとどまらず、
その内部においても、さまざまな集団が個別文化を持つという認識がヘルダーのなかにあった、
ということをウィリアムズは指摘するわけです。


このあとの発展・拡大は非常に大きな歴史的意味を持つようになります。
ロマン主義の流れのなかで、cultureは、国民の伝統文化を強調するために使われ、
ここから新たに民俗文化(folk-culture)という概念が生み出されます。


このような流れのなかで、「文明」VS「文化」という構図が出てきます。
ここでいう「文明」とは、「機械的」、あるいは「物質的」発達のことを指し、
これに対して、「文化」は「人間の」発達を示すものになったわけです。
ちなみに、ウィリアムズは逆の用法も存在したことを紹介しています。


この本では、もっと詳細にcultureという語の変遷について書いてあるんですが、
その辺は置いておいて、
ここらで、バシッと現在のcultureの用法をコンパクトにまとめてくれている箇所をあげておきます。

  1. 知的・精神的・美学的発達の全体的な過程
  2. ある国民、ある時代、ある集団、あるいは人間全体の、特定の生活様式
  3. 知的、特に芸術的な活動の実践やそこで生み出される作品

という3つの定義が紹介されています。
ウィリアムズ曰く、3番目の用法が最も一般的であり、
cultureとは、「音楽・文学・絵画と彫刻・演劇と映画」のことである。
この言葉は、そっくりそのまま日本語での「文化」の用法と重なるものでしょう。
高校や大学受験で勉強する文化史とは、「音楽・文学・絵画と彫刻・演劇と映画」の歴史です。
これに哲学・学問・歴史が加わることもあるとウィリアムズは続けています。
これらを加えたら、完全に高校・大学受験的文化史に重なります。
この高校・大学受験的文化史は、日本で中等教育を受けてきたほとんどの人が思い描く文化史像であるはずです。
おそらく、日本における文化史についてのイメージのマジョリティといえるのではないでしょうか。


ウィリアムズは、この本のなかでは「文化」の明確な定義を行っているわけではありません。
その複雑性を提示しているだけです。
というよりも、複雑性を受容することを提起しているともいえるかもしれません。


「文化」についての議論は、まだまだできるのですが、
あまりこのことだけを話題にするわけにもいかないので、
そろそろ次の話題にいきたいのですが、
最後に、「文化」について、歴史学との関係で触れておきたい問題を述べておこうと思います。


それは、歴史学における「文化」、ないし「文化史」という言葉がもつニュアンスが、
ここ20年ぐらいで大きく変わってしまったということです。
正確な変化の時期は、調べてみないといけないのでしょうが、
おそらく1980年代ぐらいに、ひとつの画期があるのではないかと思っています。
その変化とは、「文化」・「文化史」が、先にあげたような歴史学における
単なるいちジャンルとして、機能しているのではなく、ひとつのアプローチ方法、
さらにいえば、歴史についての認識論的問題と関わるものとしての理解がなされているということです。


それは、1980年代以降の知的潮流のなかで、文化史とは、ほぼイコールで言語論的転回、ないしポスト構造主義の影響を受けた歴史学として、
理解されている、ということです。
そこでは、文化とは、文化コードのことであり、
文化コードを形作っている主要なものは、言説である
という認識がなされているように思われます。
この点は、もう少し理解を深めたうえで、議論したい点ですので、
現段階では、僕個人の印象として述べておきます。


ここで述べておく必要があるのは、
従来的(一般的)意味での文化史も死んでいるわけではない、ということです。
誤解を恐れずにいえば、旧来どおりの「文化史」と新しい「文化史」が並存している状態にあるということです。
もちろん、どちらがいいという話しではないのですが、
このように「文化史」がダブル・ミーニングを引き起こしていることは、場合によっては、
文化史を語るうえで、決定的なディス・コミュニケーションを創り出してしまうということがありえます。(現に、僕の周りでは起こっているように思います。)


このことを、問題だと考えることもできますが、
逆に、このディス・コミュニケーショナルな状態のなかに
可能性を見出すこともできるでしょう。
むしろ、僕としては、この可能性にかけているわけです。
デリダ的にいえば、文化史の脱構築とでなるのでしょうか。
その先に、どのような「歴史」が待っているのかはわかりませんが。


このあたりの議論は、自分自身のなかで整理する必要があるところではあるので、
現段階では、精緻な議論の枠組みというよりは、
文化史家としてのマニフェストぐらいに思っていただければと思っております。


と、一応のオチをつけたところで、
次回からは、「文化史」の問題に具体的に入っていければと思っています。