「文化史」をめぐる諸問題:その2

1ヶ月ほど、ご無沙汰していました。
この間、本業のほうにかかりきりで、こちらを更新する余裕がありませんでした。
すみません。
それでも月に1回は更新できているので、自分としては、まあ許容範囲なんじゃないかと思っている次第です。
だいたいこんなペースで進んでいくんじゃないかと思っております。


今回は、
前回、予告したように「文化」とはどのように捉えるべきものなのか、
という問題について考えてみたいと思います。
とはいえ、あまりに大きな問題であるため、独自の論の展開というよりも、
とりあえず大家の見解をおさえることから始めたいとおもいます。


カルチュラル・スタディーズの祖の一人とされる
レイモンド・ウィリアムズの著作『完訳 キーワード辞典』(isbn:4582831184)
のcultureの項を見てみると、
cultureは「英語で一番ややこしい語」のひとつと述べています。
日本語の「文化」のややこしさは、そもそもこのcultureの訳語として用いられていることに起因しているように思います。

とにかく、cultureは英語でもやっかいな言葉であるということです。
この本では、ウィリアムズはcultureの語源からアプローチしています。
ウィリアムズによれば、
culture←cultura(ラテン語、「耕作」)←colere(ラテン語
というように変化してきたということです。

colereは、「住む」・「耕す」・「守る」・「敬い崇める」といういくつかの意味を含むものでした。
その後、いくつかの派生語が出来ていくのですが、
「耕作・手入れ」というcolereの主要な意味を引き継いだのが、culturaです。
この言葉からcultureになっていくわけですが、
この語の初期の用法は「なにか(基本的には作物や家畜)の世話をすること」を意味し、
なんらかの状態を示すというよりは、なにかに対して作用をする過程を示しています。

そして、決定的な変化は、「自然の生育物の世話」という意味が、
「人間の発達の過程」という意味に広がっていったことです。
この「人間の養育」という用法は、始めは比喩として使用されていたのが、
頻繁に使用されることで、比喩から直接の語義に格上げされていきます。
ウィリアムズが強調しているcultureの語義変化のプロセスにおける重要なターニング・ポイントは、
「個別の過程」を意味していたものが「一般的過程」を示すようになったということです。
要するに、この「一般的過程」なる意味が現在のやっかいなcultureおよび「文化」をめぐる問題を創り出しているわけです。

分かりにくいと思いますので、僕なりに解説を加えてみますと、
単純に人間の発達過程として
「精神の養成(culture)」とか、「理解力の修練(culture)」とかの意味で使われているうちは問題ないわけです。
すなわち、「〜のカルチャー」(culture of 〜、だと思います。原文を確認してないので間違いだったらごめんなさい)
の「〜」に「精神」とか「理解力」だとかの人間性とされるものが関わった単語が入って、
その鍛錬だとか、成長だとかの意味でcultureが使用されていたわけです。
これは、ラテン語のculturaとかなり近い意味なわけです。
単に、「自然物」の世話から「人間性」の世話になっただけの話しです。

こいつが「一般的過程」とか言われると、途端にやっかいになるわけです。
こいつを理解していただくために、とりあえず、現在の「文化」という言葉を思い浮かべてみてください。
「文化」という言葉には、あんまり「過程」とニュアンスはないかもしれません。
ここで、理解しやすくするために、ウィリアムズ先生の説明に戻ると、
「抽象的な過程」や「その過程の生んだ結果」をさす・・・
とあります!
この「過程の生んだ結果
という意味での「文化」はそこそこ理解してもらえるのではないでしょうか。
なにか一般的・抽象的現象(例えば、「日本」とか「若者」とか、現在「文化」をつけられている言葉のなんでもいいので浮かべてみると、
わかりやすいと思うのですが)が形成され、発展し、その結果が「文化」なんだというのは結構しっくりいくんじゃないでしょうか。

*これを書きながら、ふと思いついたのは、「文化史」=「文化」そのものなんじゃないかというこです。というのは、ウィリアムズの上記の説明では、cultureの語義にはそもそも「過程」という意味が含まれているわけです。これを特化して焦点を当てる試みが「文化史」の「史」ということなんじゃないでしょうか。少なくとも、現在の日本語において(あくまで日常的な使用に限定しておきますと)、「文化」という言葉は、「過程」を経た「結果」またその「状態」を指しているように思います。その「結果」・「状態」を探るために「過程」を検討する必要があるということが、「文化史」の「史」ということだとすると、そもそも「文化」は過程を意味するわけですから、わざわざ「史」を付ける必要はない重複言葉なんじゃないかと思ったわけです。つまり、「文化学」はありだけど、「文化史学」はなしということです。ここからさらに極論をいうと、カルチュラル・スタディーズと文化史は同じものであるという結論に行き着くんじゃないかと。思いつきなので、ここからなにかを展開するつもりはないのですが、文化史をめぐる問題は、結局のところ、「文化」をどう考えるかにかかっているという前回確認した問題に戻ってきたということです。


さて、本題に戻りますと、cultureの語義に「一般的過程」が含まれるようになり、現在のやっかいなcultureの概念が生じたということでした。
cultureの問題は、ここから問題の核心に入っていくのですが、例によって、随分と長い文章になったので、とりあえずアップしておきます。
つづきは、また後日ということで。
中途半端な感じですみません。
これ(話しの途中でも、疲れたらやめる)も定番化していきそうですが、お許しください。
日々のタスクは山積みですが、当面の「山」は登りきったので、
次回は、早めに更新できると思います。