「文化史」をめぐる諸問題:その1

最初の記事から、ご無沙汰しているうちに、年が変わりました。
2009年になってしまい、最近(でもないか…)よく見かける「ゼロ年代」とか、「ゼロアカ」という言葉もこの一年で、現状を表す言葉としては使えなくなってしまうのかと思うと、月並みながら、時の流れの速さを感じてしまいます。



前置きはこれくらいにして、今回(このあと数回は続くであろうと思われます)話題にするのは、「文化史」をどのようなものとして考えるのか、ということです。
前回の記事で述べたように、僕は「文化史」ということを強く意識しており、このブログではそれに関する問題について、中心的に書いていきたいと思っています。
そこで、まず、「文化史」とはいったい何なのか、あるいはどのようなものとして認識可能なのかということを考えてみたいと思います。



「文化史」とは、一般的な認識としてどのように捉えられているのでしょうか?
前回も述べましたが、僕の所属する大学の専攻名は文化史学専攻です。
これは大学院での専攻名ですので、学部では、文化史学科となっています。
この学科に入学したばかりの学生や、ここを志望している受験生からよく耳にする「文化史」のイメージは、基本的には高校時代ないし、受験勉強のなかで作られたジャンルとしての「文化史」です。
具体的には、美術史(および芸術に関する歴史)や文学史、あるいは思想史(というか、思想家の名前とその著作の時系列に並べたものといったほうがいいかもしれませんが…)などです。
特に、美術史が強く意識されている場合が多いように思われます。
「文化史」については、このような高校教育(および受験勉強)的認識をしている人が一定数いるように思います。



また、これとは別に、『…の文化史』のようなタイトルがつけられている書籍などによって作られている「文化史」のイメージがあるでしょう。
アマゾンで「文化史」でタイトル検索してみると、『・・・の文化史』の「・・・」に入るワードとしては、「女性器」、「物価」、「性欲」、「遊女」、「ペニス」、「ヴァギナ」、「中華料理」などが上位にあがっています(一応、売れている順で検索した結果です)。
なぜか、セクシャリティに関連するものが多いようですが、『・・・の文化史』というタイトルの本がセクシャリティの本ばかりということではないと思われます。
ためしに、出版の新しい順での検索をかけると、「活版印刷」や「食」、「情」、「機械化」、「豪華客船」などのワードが入る書籍が引っかかってきます。
これらの書籍はさまざまなジャンルにわたるものですが、共通するのは、「王道」の歴史、すなわち政治を中心とした歴史とは外れるジャンルであるということです。
これらの本をフォローしているわけではないので、各著者がどのような認識をもって「文化史」という言葉を使っているかは、測りかねますが、(政治史のような)一般の歴史ではないというときの標識として機能しているように思います。



こうしてみると、「文化史」という認識からイメージされるのは、いわゆる一般の歴史とは外れる歴史を示すものということができそうです。
しかし、これでは「文化史」は雲をつかむようなものになってしまいます。
あるいは、否定神学的にしか定義できないものになってしまいます。
すなわち、一般的な歴史ではないものが「文化史」であると。



では、僕の大学では、文化史がどのように考えられているのでしょうか?
この問題はとても複雑で、それぞれの教員が異なる認識をしている可能性も大いにありうるので、一概にこうだとはいえないのですが、話しを簡単にするために、うちの教員が学生を指導する場合や、実際の学生の卒業論文に見られる認識という点からいうと、(政治史を含む)すべての歴史が文化の歴史であり、文化史≒歴史である、とされています。
つまり、一般的なイメージとは異なり、すべての歴史は文化史として扱えるということになっているわけです。
なんというか、素も子もない、しょうもない話しになっているわけです。
このような認識に多いに不満を感じているため、僕はこのブログを書くことを決めたわけです。
しかし、不満があるといいつつも、このような大まかな認識が間違っているとも言いがたい側面があります。
というのも、政治や経済が文化ではないとはいえないからです。
であるならば、政治史も文化史であり、経済史も文化史となります。
このような認識をすると、結局「文化史」とは何かという問題には答えることができなくなってしまいます。



この困難は何に起因するのでしょうか?
おそらく、「文化」という言葉の曖昧さ、あるいは意味の広がりに起因するように思われます。
「文化」とは何かという問いに即座に答えることができる人は少ないのではないでしょうか?
次回以降では、「文化」をどのように考えることができるのかという非常に難しい問題について考えてみたいと思います。